実家の押し入れに眠っていた、中学生のときの写真や作品、作文が見つかった。20年近く放ったらかしにしていた10代の思い出たちから、学校の先生が描いた絵を見つけた。当時、同じ学年だったメンバーの似顔絵。
養護学校は、今は特別支援学校と言われているらしいが、そこの通う生徒は何らかの障害を持っている。歩けないので車いすを使っている人、足の装具をつけて歩いている人、言葉を理解できても発信することが難しい人など様々だ。そういった学校は、自宅から通う学校と、寄宿舎や病院に入ることを前提に、そこから通う学校と二つのパターンがある。私の中学校は病院と併設されていたので、この同級生たちとも生活を共にする。

今、思い出すと、同級生たちとの学校生活は愉快で、二度とできない経験だった。特に夜は、夕食後の1時間の学習時間では、みんな仕方がなくシーンと静まり返って勉強をしているふりをしているが、残り3分で学習時間が終わる頃にはそわそわしだし、自由時間になった途端、それぞれ部屋から飛び出して、思い思いに好きなことをしていた。
6名のベットが置いてある部屋に、10数名が集まって、いきなり野球を始めていた。同級生だけではなく、小学生や中学の異なる学年、高校生まで、同じ病棟にいたので、年齢バラバラな組み合わせで、狭い部屋でよく遊んだもんだ。ボールが廊下に飛ぶと危ないので、部屋のドアを閉めてバッティングをするのだが、思いっきりボールがガラス戸にあたり、割れそうになったことは何度もあった。
言葉を話せない人も多かった。話せないのは、様々な理由がある。喉に穴を開ける気管切開をしてかすり声しか出せない人、「うーあー」という方法で感情表現をする人、精神的に話をすることにハードルを感じている人、筋の緊張度が高くて、口や喉の動きが悪くはっきりと話せない人などだ。
イラストの一番右下にいる男性は、確かタッちゃんだったと思うが、女の子が大好きで、肩手こぎの車いすでいつまでも女の子を追いかけ回していた。相手がものすごい怒ると、フニャッと顔を下に垂らして、「すみません」と言う。でも、また次の日には追いかけていたり、ターゲットを変えて、今度は私のところにも来ていた。角刈りのタッちゃんは、食事中も食堂全体を笑わせるほど、キャラが濃い。とにかく、がっかりする表現が上手すぎて、私は、この人は芸人になれるのではないかと本気で思った。
生まれつき障害の人もいれば、小学生や中学生(ついすぐ前)に事故などで障害になった人も多かった。ただ、障害名は実は全く知らない。というか、一緒に遊んだり、勉強するのに、障害名を知る必要がなかった。付き合っていれば、何が得意で、苦手なのかはすぐにわかるからだ。
勉強レベルはそれぞれ異なるので、授業のときはそれぞれのレベルにあったクラスへ分かれる。クラスルームやイベントのときは、また一緒になってやっていく。私は、普通学校もこういったスタイルでできると思う。普通学校の子どもたちも、本当は苦手なことがあるはずなのに、みんな同じレベルになるか、ずっと高いレベルを目指すよう急かされている気がする。みんな必死にさせられている中で、「変わった子」や「学習についていけない子」と出会っても、違いを理解し合う心の余裕がないのは当然のことなのかもしれない。「自分も辛い中やっているのに、なんでこの子はできないのだろう」と、その子を排除したい気持ちが芽生えてしまうのかもしれない。
私も、養護学校という「普通学校とは離れた学校」にいたため、遅れをとってはいけないと勉強を必死にやっていた。中学生のときに、近隣の普通学校の生徒との交流授業があったが、それは悔しい思い出しかない。なぜなら、同じ年の人に「みちこちゃん、えらいね〜」とまるで年下の子どものように話しかけてきたからである。私は「この子よりも、勉強ができるかもしれないのに、なんでこんな扱いをされなくてはいけないのか」と悔しかった。しかし、大人びた私は、喜んだふりをした。ある意味、そんな私たち(近隣の中学生と私)のやりとりは怖いので、お昼にやっているドラマ(昼ドラという。この時間のドラマに出てくる人間関係は、たいていドロドロで複雑な特徴がある)に出ても良いと思う。女優を目指すのも悪くなかったかも!あ〜もったいない。
実家の片付けをしていて見つかったこのイラストは、新村先生が描いたものだ。もう交流はないが、元気にされているだろうか。このイラストに映っている洋ちゃんは、何年か前に不慮の事故で亡くなってしまった。そのほかの人たちは元気にしているだろうか。
みんな、キャラが濃すぎて、芸人に絶対なれると思う。
この仲間たちと出会った経験は、今も私の中に根付いていて、同じ人間としてでしか見ることができない。障害者も教育で分けられることなく、「どの人も、みんなキャラが濃い芸人」であるとお互いに感じられるような学校教育であってほしい。
そうすれば、健常と言われる子どもたちも、する必要のない精神的な苦労はせずに、のびのびと生きていけるかもしれないのだ。