先日、明治大学の学生さんが札幌にいらっしゃり、私からも障害者としての経験をお話しした。学生さんから、札幌で色々な障害者や介助者の方などから話を聞いたあとの感想の文章をいただいた。普通なら、大学生は研修後は感想を書いて終わりであるが、私は学生さんの論文を見て、お返事をしないのはもったいないと思った。学生さんの文章を載せることはできないが、私の返事の内容を載せてみたいと思う。(なお、赤文字は、このブログに載せたときに、必要だと思って追加した説明です。)
学生さんが学んだ「多様性」は核心を付いている
さて、皆さんは、この世の中には、マジョリティとマイノリティが存在し、全く違う視点を持っていること、「多様性はそもそも存在しているもの」ということに気が付かれました。そして、「理解する」という言葉は、簡単には使えないことも感じたようですね。様々な立場の方のお話を聞いたからこそ、核心の部分に気がついたと思います。
考えてほしいこと①「多様性」の中の自分の位置はどこ?
皆さんには、それらの学びを受けて、考えて欲しいことが3点あります。
まず、「多様性の中で、皆さんはどこの位置にいますか?」ということです。皆さんの感想を見ていると、「多様性の社会」の外側に自身を置いてしまい、皆さんも「多様性の中に生きているはず」なのに、他人事のように捉えているように感じます。
私たちは、「マジョリティとマイノリティ」「介助者と被介助者(介助を受ける人・利用している人という意味)」とカテゴリーにしているのは、整理しやすいように、勝手に(一時的に)区分けしています。しかし、本当は、もっと多くのカテゴリーがあって、皆さんであれば、「女性」「学生」「明治大学」などなどが当てはまると思います。社会では「女性だから、化粧をして女性らしくしなさい」「学生だから経験も少ないよね(学生の意見や判断が認められないことにつながる発言として)」「良い大学を出たのだから、まともなところで就職しなさい」と思われるといった、圧力があるのではないでしょうか。カテゴリーで考える時点で、多様性を語るのに苦労します。自分で思考を狭めてしまっている気がします。
考えてほしいこと②自分を尊重されなかった経験はあるか
2点目は、「これまでの人生の中で、自分を尊重されなかった経験をしたことはありますか?」という質問を投げかけます。日本は、協調性・同調性を重んじる教育をしています。「他人に迷惑をかけてはいけない」「トイレは授業中に行ってはいけない」「ルール通りの格好をしなさい」「意見を言ってしまったら、浮いてしまう」などです。いつしかそれが当たり前と思っていたでしょうか。障害者は「施設に行くのが当たり前」「介助で迷惑をかけるのだから、わがままは言わないで」「介助しやすいように脱ぎ着しやすいような服を選びなさい」と言われてきました。いつしかそれを当たり前だと思っていました。しかし、それでは、自分の人生を自分のものにできないと、障害者たちは戦ってきたのです。本当は、皆さんも教育のあり方に意見を言えるのが筋です。だって、自分たちの将来のための教育ですから。学生さんが「将来が全然どうなるかわからない」「生きる希望がない」と思ってしまうのもそのせいではないでしょうか。そう考えると、「マイノリティ」「マジョリティ」をどこで分けるのかわからなくなってしまいますし、分ける必要がないとも考えられます。
考えてほしいこと
③「介助者と被介助者」の間の「多様性」とは何か
3点目は、「介助者と被介助者」についてです。この場合の「多様性を認め合う」とはどういうことでしょうか。
例えば、医者と患者であれば、医者は患者の命を守る義務(義務と言って良いかはわからない)がありますが、それに反する意見(患者の命を守るという以外の考え)は認められないと思います。薬の処方や治療方法の組み合わせは、医師によって様々です。その場合、患者自身が医師を選んで(セカンドオピニオン)いくことができますが、それを歓迎していない風土があるのが日本の医療だと思います。「共感」という問題ではなく、「自分に対して役割を果たしてくれる医師なのか」ということを患者は考えますが、医師によっては「警戒している患者」「医師のいうことを聞かない患者」「ドクターショッピングして不安定な患者」と思う人も出てきます。
(なぜ「共感」の話が出ているかというと、学生さんの感想に「被介助者の行動や言動に賛成できないことや共感できないことがあったときに、多様性として受け止めるのか、話し合いを通じて解決に向かっていくのか選択に迫られる…(省略)」という感想があったからです。)
なので、「介助者」はそもそもどんな役割を果たさないといけないのかということを明確にしないまま、介助者同士の不安や怒り、感情だけで「共感できない」という話が出ていると、危険な方向にいってしまいます。そもそも、他人の生活スタイルには共感できません。自分の生活スタイルがあるからこそ、みんな不安なく自分の部屋で過ごせるのですが、いざ他人による介助が皆さんにも必要になったら、「部屋を汚くすることに手を貸したくない」「そんなに夜に出歩かないでください」と言われることもあるのです。
生活スタイルの価値観は、隣の友人のお部屋に一日中いただけでも違いますし、「口を出したくなる」でしょう。そうしたら、「洗濯機でジャガイモの皮を剥いてみる」「夜中にクラブに遊びに行く」「性の活動(マスターベーション)」など、受け入れられない人が出てきます。しかし、中には受け入れられる人もいることが現実で、障害者も介助者を選べられたらいいのです。
時々、無理難題を押し付けてくる利用者もいると思います。重たいものを持てない人に、2リットルの水を10本買ってきてとか。人間としてできないことや犯罪を犯すことはできないでしょう。それ以外をどこまで受け入れるかは、介助者や事業所次第です。
しかし、病院選びの例で例えると、「医師にきちんと(相手にわかるように、伝わるように)自分の意思を伝えられる人は、どれくらいいるでしょうか」。医師は言葉も権力も持っていますが、患者はそれと比べて劣ってしまいます。私たちは、「言葉を持つ経験」が必要です。そして、そもそも介助者はなんで必要なのでしょうか。
「介助者と被介助者」「先生と学生」「男性と女性」で多様性のあり方は違うでしょう。「多様性」という言葉で終わらせずに、「この場合はこう」、「私の場合は女性という立場で男性の発言はこう感じる」とどんどん生きた言葉を付け加えていってください。
さて、長文にお付き合いくださりありがとうございました。とにかく、札幌での旅行も楽しまれたのであれば嬉しいです。誰でも、他人のことは偉そうに言えるのですが、自分のことになると悩ましいですね。一生の課題です。わたくしも。
それでは、これからも、悔いのない人生を作っていってくださいね。この度はありがとうございました。
「ピンとこない」まま大人になっていく私たち
感想の感想を書いた私は、学生さんのおかげで色々なことを考えた。「多様性」「健常者も障害者も共に学ぶ」「お互いの違いを認め合う」という言葉を使うと、私自身がわかった気になったり、相手に伝わった気になったりする。小学校などの学期ごとの集会で、校長先生が体育館の壇上に上がって、「お互いの違いを認め合いましょう」と話していたとしたら、「ふーん、なんだろうな〜」と話半分に聞いて、鼻をかいたり、立ちながら聞いているとふらふらと腰を振りたくなったりする。真面目に聞いているようで、今日の休み時間は何して遊ぼうかと考えている生徒もいるだろう。
ようするに「ピンとこない」のである。
ピンとこなくても、大人になって知識がついてくると、なんとなくわかった気になって、「わからないということが言えない・言わない」ようになってくる。
今回の学生さんは、介助者と介助を利用する側の話を聞いてきたので、「介助者と被介助者」という表現をしていた。この話は、二者の関係性のみに焦点を当てすぎると煮詰まってしまう。お互いに人間同士だから、そこから発生する葛藤もなくはない。しかし、介助者は「介助を必要としている人が、これまで通りの生活を送れるようにサポートする役割」があることを前提にして、そこが揺らいでしまう要因や解決方法を模索していかないとならないと思う。
介助を利用する人も、「人に頼む」という経験やスキルが必要で、介助者も他人のライフスタイルに手を貸すことの意味を理解し、自身の生き方と分けて考える経験が必要である。労働環境が良くなければ改善する必要があるし、利用者の心の葛藤を吐き出す場所も必要だ。(もちろん介助者に対しても)
学生さんは一生懸命考えて、色々感想を書いてくださった。マイノリティやマジョリティ、多様性という考えを知ったあとは、社会で自分はどう位置付けをされてきたのか、本当はどうしていきたいのかを考えるための「言葉」を持っていくことになると思う。
