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SNSの流し発信、流し理解を見直す

最近、講演の依頼をいただくことが多く、資料づくりに追われている。20代前半から続けているため、もう10年以上が経つ。「私の一生涯の仕事は発信業務である」と言ってみたいと思う。先日の「飛んでけ!車いす」の会の講演では、参加者の方々から「もっといろいろな人に知ってほしい内容だった。もっと広めていってほしい」と言ってくださった。嬉しい反面、一人で広めるには限界があることを伝えなければならなかった。

10年以上の間、講演会でずっと変わらず聞かれることは「障害者の方を道で見かけたとき、声をかけていいものなのか、困っていそうでも声をかけない方がいいのか」という不安である。おもしろいことに、小学生から中年層の方まで同じ質問をされる。

例えば、車いすを自分で漕いでいる人を見かけて、段差の前で乗り越えようとしている姿を見て、「手伝いましょうか」と声をかけようという気持ちがわく一方で、自分でやりたい人だったら迷惑かな?断られたら嫌だな…と思うという。

ちなみに、私がアメリカやイタリアなどの海外に行ったときは、気にかけない人もいれば、気にかけたら「Do you need a help?」と声をかける人もいて(当たり前か!)、必要ないわ!と答えたとしても、「Ok.Have a nice day!」と返ってきてさらっと終わる。こんな感じだから、断りやすいし、必要であれば頼みやすい。シンプル・イズ・ベスト。

日本は、子どもの頃から、健常者は健常者、障害者は障害者という似た者同士で一緒にされて、違う者同士が交わることがなかった。だから、お互いに遠慮や距離感が生まれて、どんな状況にいるのかわからないまま大人になっていくのだと思う。

社会全体の問題であるために、障害者からの発信だけでは、この溝を埋めることはできない。かといって、SNSにたくさん発信したらいいかというと、そうではないと思う。SNSは多くの情報にあふれているために、一つひとつの情報に対して、深く考えることなく終わってしまう。一番やっかいなことは、SNSで流れてきた情報が脳の中でかすかに残っているだけで、わかった気になって、自分ごととして考えることがなくなってきていることだと思う。発信している方も、自分の言葉を消耗品のように流すことに抵抗感がなくなり、他人の言葉さえも、消耗品扱いをしてしまいがちであると思う。

もともとある社会全体の問題と、SNSにより発信と理解がおろそかになってしまうシステムが、異なる状況にいる人同士の理解を妨げている。その状況を変えるには、「自分の言葉で、自分の身近な人の最低2人に、面と向かって話をすること」だと思う。

 

今日はダイコンをいただいた方に、ダイコンの煮物をプレゼントした。「ダイコンに付加価値がついて返ってきた」と喜んでくれた。私たちにいい栄養となるように、どうやって素材の味を活かそうかを考えると楽しい。そう思うと、あきらめてしまいがちなことにも、どうにか手を加えたら、必ず変わっていくと信じられそうだ。

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