先日、ヘルパー事業所の研修で講師を頼まれた。7月20日に発覚した札幌市内での事件を受けての話をした。札幌市東区に住んでいた男性が、介助職員に泊まりの介助を受けている最中に顔や頭などを強く殴られ、亡くなった事件だ。この事件の報道はすぐに終わってしまったが、津久井やまゆり園の事件と同じくらい痛ましく許せない出来事である。(事件についてはこちらをご覧ください。→JIJI.com)
このブログを書いているとき、なかなか手が進まなかった。きっとかなりショックを受けたからだろう。休み休み書くことにして、今日は昼食に、温かいうどんと高野豆腐の唐揚げのあんかけを料理した。お腹も満たされて、昼寝をし、すっきりと起きてコーヒーを飲んだ。何気ない日常だが、小さな幸せを積み重ねている気分だ。この日常生活は、私にとってはヘルパーさんとの関わりの上で成り立っている。鍋を火にかけて野菜を切って調理をしたり、ご飯をお皿に盛ったり、ベッドに寝かせてもらったり、コーヒーを淹れたりするのも、実際はヘルパーさんの手で行なっている。もし、ヘルパーさんが私の料理の仕方が嫌で手を止めたり、何度も横になるのかと不快な気持ちで体を持ち上げたりされたら、一瞬で私の幸せな生活ではなくなってしまう。今日のヘルパーさんは、初めてコーヒーを淹れる学生さんであるが、快くやってくれる素敵な人だ。
そんな何気ない普通の日常は、毎日起こっているわけではない。家族や友人などの人間関係がうまくいかない、連日働き続けていて疲れている、今の生活に満足できないなど、自分の環境が悪かったり、さらに疲れて、ますます心が歪むことがある。何気ない日常を幸せに感じられないくらい余裕がないときも、たくさんある。そのために、お互いに衝突が起こり、親やパートナー、兄妹、恋人、友人などとうまくいかなくなってしまうこともあるだろう。
今回の事件で利用者と介助者の中で何が起こったのかは知ることはできない。しかし、一つ言えることは、利用者は抵抗できなかったことである。プロレスやボクシング、相撲などの格闘技では、同じ土俵に上がり、試合までにお互いが自身の体を準備して、正式なルールで戦う。介助者は、利用者の生活のサポートをするために訪問している。もし、連日勤務が続いている環境であれば、「今、自分は幸せではない、悪い環境にいる」と自身で感じ取り、改善していく必要があると思う。どこからか湧いた負の気持ちを利用者にぶつけてはならない。
利用者と介助者は、「介助」という目的のみの関係である一方で、家族以上に利用者のプライベートを知られる・知るという特殊な関係でもある。さらに、介助者が障害者に対して「かわいそう」「守ってあげなきゃ」とか、反対に「甘やかしてはいけない」「自分でなんでもさせなければならない」「特別扱いしてはならない」と思っていたら、一方的に保護的になったり指導的になったりする。利用者の方は、私も以前はそうであったが、周囲の大人に完璧を求められていたから「健常者はなんでもできるんだ」と思って、過剰なことを頼んでしまう場合もある。そのような関係は普通ではない。私たちは無意識に感じていることを意識して変えていく努力が必要である。
人は、常に良い人でいることはできない。イライラすることや、どうしても許せないこと、悲しくなること、周りの刺激をシャットダウンしたいこと、わーっと叫びたくなることがある。私の先輩である、24時間介助が必要な佐藤マサヒロさんは、「僕は24時間365日スイッチオンな状態だ。ヘルパーは勤務が終わったら、スイッチオフになってビール缶を開けてホッとできる。」と話していた。もちろん、ヘルパーさんに気をつかうことは大切であるが、基本は、本人の日常生活は本人のものだ。
人は、自分の気持ちの葛藤やおさまりきらない様々な感情を、いろいろな人間関係の中で発散している。仕事帰りの金曜日の夜に、パーっとお酒を飲んで、酔っ払って言い合いになったり、泣き出したり、誰かに介抱されて帰宅することもある。そんなことを受け止めてくれる、一緒に楽しんでくれる「誰か」がいることで、私たちの何気ない日常生活は起こっているのではないだろうか。
障害者は重度であればあるほど、親や介助者などの特定の人との関係だけの生活になってしまう。それは、社会のあらゆる制度や物理的なバリアによって、障害者が外に出づらかったり、私たちが子どもの頃から、障害者と健常者が分けられた教育をさせられてきたからだろう。福祉の資格を取らなくても、障害者の映画を見なくても、自然に交わっていれば、本当はお互いにお互いのことを想像して、理解し合うための気持ちの余裕があったのではないだろうか。