「障がい」とは

小学生のうちから「介護保障」を学ぼう〜佐藤正尋さんのブログを教科書に!

私は、生まれてから今までずっと、一人の力ではおしっこができない。トイレに移って座り、パンツを脱ぎ、お尻を拭いて、またパンツを履き、トイレから車いすに移るまでの一連の流れだけでも、他人による「介助」が必要である。「介助」という言葉を使ったが、「高齢者介護」というように、「介護」の方が耳慣れしていると思う。「できなくなった人を『守る』ように介護をする」という意味が強く、私のように高齢になる前から必要な人は、「できないところをサポートする」という意味の「介助」を使うように、主張してきた経緯がある。

私は、小学生のうちから「介護(介助)保障」を学校で学べるようにすることが必要だと思っている。福祉という言葉を知るようになって、大学や専門学校で「関心がある人だけ」が学びに行くのでは遅いと思う。「私たちが飲んでいる水はどこから来るの?」という生活に直結した関心ごととして、「お互いにできない・苦手なことを頼む・頼まれるってどういうことだろう?」と、人間として必要なこととして学んでいくことができると思う。

私の大先輩である佐藤正尋さんのブログ「日常生活動作の保障は、ノーマライゼーションの近道」の文章は、子どもから大人まで読んでほしい。正尋さんの文章は、とてもわかりやすいので、絶対に教科書に載せてほしい。

日常生活動作の保障は、ノーマライゼーションの近道

身体が自由でも、身の回りのことを全部自分でしている人はいるだろうか。障害があってもなくても几帳面、大雑把な人もいる。健康であっても、いつ、病気やけがで障害を負って介護が必要になるかもしれない。そうでなくても、だんだんと年を取り体が不自由になることはさけられない。

自分の意志と判断で身体を自由に動かすことができれば,生活動作に対価としての経費は発生しない。例えば、「水」を飲むと水道料という経費が発生するが、水を飲むまでの前後の動作には経費は発生しない。仕事上のノルマや大事な約束以外は、全てプライベートの時間である。

スケジュールが決まっていても予定を変更したり、体調や精神状態の変化によって物事の時間を早くしたり遅くしたり、省く事もできる。その時の状況に合わせて、臨機応変に行動できる自由がある。

「今日は、天気が良いから散歩に出かけ、ぶらぶらしながらショッピングでもしようか。そういえば、アイツにもしばらく会ってないな。誘って映画を見て、そのあと食事に行ってカラオケでもいくか」こんな何処にでもあるちょっとした当たり前の自由も、今の介護保障では満たすことはできないのが現状だ。

介護が必要な人にとって食事,排せつ,着替え、洗面,入浴,移動(外出)等の生活動作の時間を前後したり省いたり、また介護者が不在となるようなことがあれば、生死につながる危険もある。 生きている以上欠かすことのできないこの日常動作を仕事として介護福祉士・ホームヘルパー・ガイドヘルパー等に責任を持っておこなってもらうことを「介護保障」と呼ぶようになったと思う。「介護」を仕事として位置づけるには「経費」がかかるわけだが、それを介護の必要な人に対して経済的、精神的負担を押し付けて負い目を感じさせるような制度では、同じ人間として「不公平」ではないだろうか。

介護を、楽をする、贅沢をするという「サービス」という意味で受け取られては困る。 介護という行為を一つの労働として認めることについては誰も異論はないと思うが、デパートやレストランやマーケット店員のような、一時的な接客サービス業とは違う。

介護の必要な人にとって、日常生活動作の保障は生きていく上で必要不可欠で、生活上の全ての場面において生きる権利(生存権)として保障をすることが、国や行政の義務だと思う。

食事,排せつ,着替え、洗面,入浴,移動(外出)等の生活動作の介護保障を「生きる権利」として認めていくことこそが、ノーマライゼーションへの社会につながる近道ではないだろうか!

2005.12.14. 佐藤 正尋

2014年の写真。私、若いな。

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