シンプル

Facebookを辞めて、1年半経ってわかったこと

私はこの2年くらいは片付けを続けている。本屋で立ち読みした「すごい片づけ〜9つの極意(はづき虹映 著)」に「片づけは、ものごとに「片(かた)」をつけることだ」と書いていた。なるほど、いちいち食器をしまったり、ペンをペンケースにしまったり、書類をファイルに区別して収めたりするのは、「はい、終わりましたよ。」という区切りなのかもしれない。だからこそ、次の行動に移せるのだろう。

私の片付け生活は、Facebookから始まった。しっかりと数えていないが、Facebookを辞めて1年半以上は経ったと思う。大学生の時から始めて32歳くらいまでやっていて、500名くらいの友人がいたような記憶がある。個人情報の流出などの問題が一時期言われていたが、私はそういう理由から辞めようと思ったわけではない。でも、なぜか気持ち的には簡単には辞められなかった。辞めてしまうと、これまでの人脈が断たれたり、時代や情報についていけなくなったりするのではないかと、不安であったことはよく覚えている。でも、今は不安だったことさえも忘れかけていた。

今日は、Facebook(以下、FB)を辞めて1年半以上経った私が感じていることを書きたいと思う。

肩が凝らなくなった

以前は、隙間時間があれば必ずFBを眺めて、友人の行動の動向や近況を確認していた。一つ見れば、さらに下の記事も気になり、全て見るまで気が済まなくなっていた。スマホでもPCでも、ずっと見ていると目が疲れてきて、息も浅くなってきて、ずっと斜め下を見ているので、首や背中が痛かった。でも、見ているときは気がつかない。「ちょっと見よう」という軽い気持ちが、だらだら見ることにつながっていった。その時点で、私がFBを確認しているのではなく、画面が私の目の動きを吸い寄せて離さない状態になっている。

その時間が短くなり、全くなくなってくると、首の快適さに気づいていく。今は、少しでも長くスマホの画面を見ようとすると、片方の首だけ痛くなって具合が悪くなっていくことに、すぐに気づくので、他のアプリも長時間見なくなった。FBを辞めただけで、スマホとの付き合いも見直し、肩が凝らなくなったのは大きな成果だ。

うわっ!見たくなかったのに見ちゃったということがなくなった

たまに近況を知りたいなという友人はいたが、その友人の記事にたどり着く前に、見たくない記事や写真が見えるのが億劫だった。スクロールを早くしたり、意識して忘れるようにしたらいいのかもしれないが、そこまで私の脳みそは器用ではない。一番は、傷の様子や事故のこと、相手のことを考えないコメント、ドアップの写真などが嫌い。FBは、誰が見ているかということを考えずに、「自分の胸の内を書いてしまう」。それを見るかどうかは相手が選択してください、という暗黙のルールがあるから、なおさら、書く側の理性が止まらない場合がある。見る側も、自分で選択していると思ってしまうが、実は脳みそでは選択されていないかもしれない。余計な脳みその疲れがなくなったことが良かった。

あと、友人同士の人間関係模様をコメントで想像できてしまう。それが楽しいという人もいるが、私は全く楽しくなかった。楽しいという人とも、私はつながっていたくない気分だ。私もコメントしたい人にはしていたし、する必要がなければしなかった。「コメントしない」ということも見えてしまうので、私がコメントせずにいたら、相手の機嫌が悪くなったこともあった。

相手が何を見たくないのか?を考えることは、永久にできないと思う。それは、人によって見たくないもの、見たいものは違うから。あ〜面倒。でも、今はそういう時間も全く必要ない。

私の人間関係の持ち方は、たいして変わらない

これだけ苦労してFBをしていたが、FBがあってもなくても、人間関係の持ち方が変わっていないことが面白い。以前は、FBの友人数は「自分の人脈」というステータスだと思っていたところがあった。講演会やその他の仕事をもらおうと宣伝もしていたこともあった。しかし、実際に全ての友人と連絡は取らないのでステータスではそもそもなかった。仕事は今も同じくらいもらっている。一番問題なのは、ステータスだと思い込んで、友人にいきなりメッセージをして頼みごとをしがちであること。私もしそうになるし、相手から私へされたこともある。マナーに欠けた依頼になってしまうことがある。

今は、この人と連絡を取りたいと思えば、久しぶりに電話をすると良いし、連絡先を知らなければ、所属先に手紙を書いたり、電話をしたり、つながりのある友人に頼んだりすれば済む。意外と、ばったり久々に会うこともあり、そこから連絡を取り合ったりもできる。今、集中して活動していることがあるなら、それが「今必要としているつながり」であるから、本当はそれ以外の人のことを考えなくていいのである。

今の私は、活動をほとんどしていないので、特に焦ってつながっておく必要もない。会ったら近況を聞いたらいいのだから、FBで近況を常にチェックしておく必要もない。むしろ、会ったときに新鮮な気持ちで、お互いの近況を話すことができるし、きちんと言葉を使って伝えようとする。意外とその方が時間を取られず、しかも記憶に残りやすい。

その代わり、私はブログを書くことによって、私と連絡を取る予定のある方に見つけもらいやすくしている。

安易な評価をしない・させない

FBをすると、「いいね!」というボタンを押すかどうかの選択が、嫌でも見えてしまう。ボタンがあれば、押したくなるのが、人間だろうか(笑)押さなくてもいいのだが、押してしまう。それに慣れてくると、「いいね!」という簡単な評価をすることにも慣れてしまう。いいね!がたまると気持ちが嬉しくなるし、たまらないと見ていないのかな、ダメだったかなと不安になったりすることもあった。安易な評価のボタンなのに、一喜一憂するほど、影響力があった。

いいね!する方も、ポチポチと押して、はい、終了。私は記憶力がないせいか、一つも覚えていない。
そういった評価をする癖はつけるより、良いと思ったことはもっと調べたり、本人に直接話しをして深めていく癖をつけた方がいい。

でも、便利なツールなのは確か

FBがダメだったことばかりを書いたが、便利なツールであることは確かだと思う。ツイッターやインスタグラムも含めて、情報を発信し、仲間を引き寄せて、思いもよらないつながりができる。私も、アメリカ人の友人ができたり、久しぶりに再会したり、災害時には友人の安否や近況を知ることができたりした。私は、車いすのため、外出がしづらい場合もよくある。そのときに、直接会わなくても、ヘルパー募集の宣伝をしたり、自分の近況を伝えて、他者とつながっている気持ちになれる。使いようには、仕事を生み出すこともできるかもしれない。

私は、FBに「片(かた)」をつけた

とにかく、私はFBを片付けたことになる。そのことによって、ストレスに感じていたことは軽減し、丁寧に伝えることの大切さを再度知り、こんな小さなことで左右されていたことに気づいた。便利なツールなのだから、また必要になれば、始めるといい。FBのアカウント削除は、「アカウントは残るがレヴューは消える」「アカウントごと完全に削除する」の2段階になっているので、まずは前者の方法をとってもいいかもしれない。私は、諦めがつく「完全削除」にしましたが(笑)

まとめ

私は、FBから片付けを始めた。自分で時間や人間関係をコントロールできると、目の前のやるべきことに集中できる。私の名前が、FBで知らない間にふらふらと流れるのではなく、このブログにとどまって情報を発信し続けられる。本当にコメントしてくださる方が、コメントを残してくださる。それで私はちょうど良い。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です