すっきりとした秋晴れ。
Youtubeでカフェミュージックを聴きながら、アメリカでの研修の報告書を黙々と書いていく。
窓を開けて、少しひやっとする空気を感じたり、隣に住んでいる子どものケンカを聞いたりしながら、集中してパソコンに向かっていた。
私は、毎日の暮らしのサポートが身近な仕事になってほしいと切に思っている。
私の暮らしにとって、ヘルパーさんは欠かせない存在。
私は脳性麻痺という生まれつきの障害がある。一人暮らしや、仕事、余暇を過ごすなど当たり前に思うことをしている。
しかし、それが当たり前にできない時期を長く過ごしてきた。
余談になるが、電動車いすは、私の足となり、私の人生の大切なパートナーの一つになっている。その車いすは、小さくて小回りが利くので、多少狭いお店でも入ることができるので気に入っている。雰囲気が良い喫茶店やバーは、たいていこじんまりとした空間。一人暮らしは普通のマンションの部屋なので、本領発揮。
少し不満なのは、バーのカウンターには高さが合わないこと。高さが自由に変えられる車いすを手に入れられたら、バーで静かにお酒を飲んだり、時に素敵な人と目線の高さを合わせてお酒を飲みながら話ができるかもしれないのに…。
私の暮らしの中は、ごく普通で平凡。
朝、ベッドから起きて着替え、髪をセットし、洗濯をして、食事をし、トイレをして、お気に入りのピアスやネックレスをつけて外出。夜は、お酒を飲みに行ったり、食事を作ったり、お風呂に入ったりして、着替えてベッドでリラックス。夜中は、寝返りをしたり、朝には二度寝をしたり…。

私は電動車いすをコントロールすることと、机の上で仕事をする以外のことは、ほとんど介助が必要だ。何度も必要な介助は、トイレ介助。3時間以上一人でいるということは、トイレを我慢するため、体にとって良くないこと、というより危険。そして、体を移動させたりすることができないため、トイレやベッドに移る時や、寝返りにもヘルパーの手が必要だ。

そのようなサポートの担い手がいなければ、私の日常生活は成り立たない。
サポートは特定の場所だけで、特定の人だけにゆだねるものではないと思う。
幼い頃から学生までは母親や父親だけに介助をしてもらっていたが、私にとっては命綱であるために、親子だからこそできるケンカはそんなにできなかった。日本では、家族が面倒を見るという風潮が強いために、家族も弱音を吐くことができないでいた。
10代は、養護学校へ行き、そこに併設されている病院や寄宿舎で暮らしていた。そこで働く職員だけが、日常のすべての介助をしてくれていた。放課後に残って軽音楽部や美術部の活動をしたかったが、ちょっと遅れただけで「入浴に介助が必要なんだから、早く帰ってこないと困る」と怒られながら、風呂に入っていた。当然、ゆっくり湯船に浸かるなんてできない。いつ上がるのかと待ち構える職員の表情を見ながら、空気を読んで行動することが当たり前になった。それが社会性なのだ、当然だという風潮で、それに逆らえば、日常の生活を送れないという駆け引きを10代に経験した。
特定のヘルパー事業所を利用して一人暮らしをしていた時、油が私には苦手なため「鶏肉の煮汁を捨ててください。」と頼んだら「捨てるものじゃない」と不機嫌に言われたり、トイレでパンツを履く時に「ナプキンが折れているので直してください。」と伝えたら、「ちゃんとやりましたけれど」と反発したりされたことがある。夜中にお腹が痛くて、ヘルパーが来られないか責任者に電話をしたら「今、人いないんだよね。」と呆れたように言われたこともある。
これまで出会ってきた職員を個別に悪いと言いたいわけではなく、特定の人だけに頼んでいると、「介助する・介助される」中での力関係が働き、その関係の中だけで、ごく日常の生活が狭められていくことが大きな問題だった。特に、障害者を対象に支援している福祉の世界で、起こりがちなことである。
今では、札幌市のパーソナル・アシスタンス制度も利用しながら、いろいろな職種の方が空いている時間に働いてもらっていることで、やっと日常生活を取り戻した感覚だ。
もちろん、元から理解のある職員さんが働いている事業所もたくさんあるから、そう言った出会いも欠かせない。
いろいろな人のサポートを受けながら、自分にとってどんなサポートがいいのか見えてくる。

そして、サポートは友人同士や恋人同士、同僚同士でも、もちろん家族同士でもよくあることである。
そう言った関係では、一方的ではなくお互いに助け合う感覚を持つことで、心地よさを感じることができる。
基本的なサポートは、私の場合はヘルパーさんだが、その先は家族や友人、もしかしたらこれから出会うパートナーなど、いろいろな人がいることが望ましい。
それが誰でも送る日常。
だからこそ、暮らしのサポートは、誰にとっても身近な仕事であってほしいと思う。