「無」になること。私は、無になることは、究極の休憩だと思っている。いつも入らないことばかりを考えていると思う。考えていることの9割は、実はあまり重要ではないとさえ思っている。もちろん、考えている最中は、そんな余裕はなかなかない。でも、「無」になることで、一瞬、体がふわっと宙に浮くような感覚になって、気持ちが良くなると、余裕という空気が私の体に流れ込んでくるような感じがした。もちろん、一瞬のことではあるけれど。
どうしたら、その「無」になれるのだろう。私は、さっき、目の前にある白い壁をぼーっと見つめて、周りの音に集中してみた。風の音、近くの幼稚園の子どもたちの声、自転車が止まる音など。自分が穏やかでいられる呼吸をしながら、そこで、ただじっと止まった。
きっと、人生のほんのわずかしか、無になる時間はないだろう。私の場合は、一人暮らしであっても、ほとんどヘルパーさんが自宅にいる。人がいる中で、無になることは難しい。それに、何かしら考えていないと、世の中に取り残されてしまいそうな感覚にも陥ることがある。いつも、いつも、私は、周りの環境や社会とつながらざるを得ない。そこで溜まったストレスを解放しようと、だれかに当たり散らしてしまうことがある。逆に、当たり散らされることもある。
だからこそ、「無」になることが必要であると思う。一瞬、自分の心や体を解放できると、周りの状況に振り回されないだろうという安心感を持つことができる。その安心感があれば、だれかを傷つけたり、だれかを利用して欲求を満たしたり、だれかに優劣をつけたりしなくて済むのではないだろうか。
5分でも、3分でも、1分でも、呼吸だけをする時間を作ってみることにしよう。
