今日もお疲れさまです。「お疲れさま」ってなんだか良い響き。お互いに「今日も頑張っていること」をさりげなく励まし合うステキな言葉だと思います。
時々、こんなことを思うことがあります。生きているだけで、重力に逆らっているから、疲れるのも自然なことだなって。反対に、もし、何もやることがなかったら、人間はもしかしたら、何もすることができず、頭も心も使わずに、干からびてしまうかもしれませんね。
目の前にやることがあって、それをするために環境を整えることができて、そして、実際にやることができるのであれば、人は色々な経験を積んで、自分のパワーを身につけていく。そうやって社会で生き生きと暮らすことができるんだなって思います。(たとえば、料理や洗濯などの家のこともそうだし、仕事やボランティア、友人のところに行って悩みを聞くとか、何でも。)多少の重力があるからこそ、幸せに暮らすためにあの手この手を考えて、毎日を過ごそうとしているのだと思います。
しかし、社会で生きづらさを感じている人は、他の人とは重力の種類が違ったり、重力が重すぎたりして、その人が持っているパワーでは追いつかなくなってしまいます。追いつかなくなるどころか、「パワーが減ってしまう」のです。
今日は「障害者」になると、どうしてパワーが減ってしまうのか?について考えてみたいと思います。

「障害者」という言葉のイメージが悪い
「障害者」という言葉のイメージは、テレビの報道の仕方や、ドラマでの障害者像、24時間テレビのチャリティイベントの仕方などによって、実際とは変わってしまいます。もちろん、それらの障害者像は一部でも(実際と)あっているかもしれないですが、それを見ている側がどう受け取っているかがわかりません。そもそも、受け取るだけで終わってしまい、たとえ誤解をしていても、(本人と会話することができないので)修正できないまま、「たくさんの人が持つ障害者像」だけが一人歩きしてしまうのだと、私は考えています。
そのような状況で、自分や家族が「障害者」になったとしたら、まず「『障害者』という言葉のイメージが悪い」ことに直面するのです。たとえば、かわいそうな人、大変な人といったイメージです。もしかすると、「自分もそのイメージを持っていた1人かもしれない」ということに気がつくでしょう。中には、「社会に立ち向かうチャレンジャー」というイメージもあるかもしれません。う〜ん、ちょっと待って、社会の色々なハードルをみんなは乗り越えなくて良いのに、勝手にチャレンジャーにしないで!と思いたくなります。「必要があって乗り越えざるを得なかった」というのが、しっくりくるような気がします。
多くの人が持っている「障害者」のイメージが、いきなりはっきりとわかる瞬間は、「障害者」として生きることになった時や、家族がそうなった時かもしれません。でも、実際に生きていくと、それはただのイメージに過ぎなかったということがわかると思います。
むしろ、一言では表せられないくらい奥の深い世界かもしれません。
「障害者」になった後の人生設計について教えてくれない
自分の愛おしい子どもが「障害者」だとわかった時、自分が何かのきっかけで「障害者」となった時、何が苦しいかというと「先が見えない」ということだと思います。病院で診断された後、先生は結果は教えてくれますが、どんな人生が待っているのかは教えてくれない場合が多いと思います。
アメリカのイリノイ州のある病院では、子どもが発達障害だとわかったら、親に「診断後の100日間やることリスト」を教えるそうです。どこに、どんなことを相談したらいいのか、子どものことを親としてどう愛したらいいのか、仲間に相談できるのかといった悩みを持っている親に対し、具体的な行動へ導いてくれるそうです。また、出生前に染色体異常が現れた時は、産むかどうかの判断のために、両親にたくさんのカウンセリングと、ダウン症として生きている人のビデオ(家族と暮らしている姿や仕事をしている姿など)を提供するところもあります。何も情報がなく、心も不安定で「先が見えない」状態で、出産をするかどうかの判断はできないからです。
もし、医者や看護師さん、ソーシャルワーカーが、色々な障害者の生き方を知っていたら、「障害者」と診断した後、色々な可能性を見つけられるような情報を与えることができるでしょう。患者さんの精神状態によっては、何を言っても聞ける状態ではないので、タイミングを見て情報を教えようと考えている場合もあります。
「障害者」として生きることがわかった後、すぐには、頭が混乱して何も耳に入ってこないかもしれません。私は、今となっては、世界中に色々な障害者の人がいて、生き生きと暮らすことができると思えますが、パニック状態ではそこまで考えられませんでした。
医療の先生や福祉の支援者の方々には、「先々のことまでは、まだ考えなくていい」と言う人もいるかもしれません。もちろん、一歩ずつ目の前のことをクリアしたら、見えてくることはあります。それでも、もっと元気になるために「先を見ていきたい」と思ったら、生き生きと暮らしている人を見つけていくために、実際に情報収集や人との出会いを求めていくと良いと思います。
サポートを得るために、困っていることを何回も言わないといけない
「障害者」として暮らしていると、病院やヘルパー事業所、日中に通う場所などを探したり、就職活動で相談員の力が必要になったりと、サポートしてもらうことが増えてきます。その度に、障害の状態やできないこと、生活で困っていることを職員さんに話して、それを職員さんは記録しながら、さらに質問してきます。それは必要なことではあります。
しかし、同じことを話すことがしんどくなったり、「障害者としての自分」のことばかりに集中してしまったりして、言葉にしていくことで、自分の気持ちにも何か影響を与えているような気がしてなりません。
特に、役所へ福祉サービスなどの申請をする時は、「本当に困っている」と言うことを真剣に伝えなければ理解されにくいので、「困っている、大変な自分」を前面に出すことになります。この時、生きているだけで精一杯な状況を伝えると、自分がもっと弱くなっていく感覚になることがあります。
本当は「自分は人の役に立つ仕事をしたいから、生活のことはこうやって手伝ってもらって、仕事中はトイレ介助をお願いしたい」とか前向きなサービス申請をしたいです。もちろん、人より体の疲れが直接きたり、苦手なところがあると言うことも話した上で、サポートがあれば、社会で活躍できることや、普通の生活ができることを理解してもらえるのが一番です。それができたら、伝えるたびにパワーが出てくるだろうな〜と思います。
そばにいる家族や友人とは違う生き方になることに寂しく感じる
まず、子育てをするママさんやパパさんにとっては、友人や近所の同じ世代のママパパと比較してしまうだろうなと想像します。通う病院が他の子どもと違ったり、気をつけることがさらに増えたりすることで、同じ境遇にいるママパパとの方が知り合う可能性が高いと思います。そう言った出会いをする前は、どうしても一般的な子育てと比較して「自分たちは違う」と思って、寂しく感じる人も多いでしょう。一言で言えば、孤立感です。しかし、なんか簡単に表現したくありません。そこまで深刻になる手前で出てくる気持ちは、「寂しい」とか、もっとシンプルな感情だと思います。そのように考えた方が、この状況を知らない人にも伝わりやすいのではないかと思います。
子どもにとっても、「どうして自分は他の子と同じことができないんだろう」「どうして、友達と一緒の学校に行けないの?」と思うと思います。私もそうでした。他のたくさんの人と同じ生き方ができないことに劣等感を抱いてしまうことも。
人と比べてしまうと、できないことばかりに目がいって、できることを見落としてしまいます。そんな状態では、パワーが減っていく一方です。
「寂しい」と感じることは自然なこと。でも、イコール「自分はダメだ」ではないことを知ってほしいなと思います。
医療の先生や、福祉の支援者に観察されるような感覚になる
私がずっと感じてきたことです。社会福祉士として働いていた時、これは、支援者側には想像しにくいんだろうなと思いました。医療だと、「異常な体(または精神状態)」として観察されて治療方針が立てられます。「足が180度伸びるようになるまで訓練する」「精神不安定だから投薬をしよう」とか。
福祉だと、「〇〇さんは〇〇する傾向がある」から正した方が良いと支援計画が立てられることがあります。誤解を恐れずに言うと、医療と違って測るものさしがないので、たとえば「お金を使いすぎる傾向がある」「職員を無視する傾向がある」と判断し、それらを記録に書いていても、その真意を間違えて捉えてしまうことがあり得るのです。「お金を使いすぎること」は計算が苦手だからなのか、そういう過程で育ったからなのか、他に何もできないから買い物しかすることがないのか?など、色々な要因が考えられます。「職員を無視すること」は、気分を害していたからなのか、職員が悪いことを言ったからなのか、何かに集中しているからなのか?によって対応が違います。
本来は、「障害があることで、本人の気持ちが見えなくなってしまっている状況をどう楽にしていくのか」を見ていくべきです。ちょっと捉え方を間違えると、「本人の生活や行動の傾向を変えることに集中しがち」で、大きく間違った支援になってしまう場合があります。本当は、周りの職員の対応が間違っている可能性もあるわけですが、そのことはあまり話題にならないような気がします。
私は、ここが難しくて、相談員として働くことを辞めました。改めて、「見られる立場」に立って考えると、目の前にいる支援者は自分たちをどう見ているのか?には敏感になっていると思います。
もちろん、最初から先生や支援者の方々を疑う必要はありません。
みなさんが目の前にいる支援者と話していて、安心して話せるか、その人と一緒なら新しい状況になっても乗り越えられそうか、みなさんの感覚が大事だと思います。
学校や職場、飲食店でさえも、「障害」に対応できていない
このブログの中でも書いてきたことですが、日本では、まだ「障害」に対応できるような環境が整っていないのが現実だと思います。
飲食店では、たとえ段差のあるところであっても、できる限り対応できる方法を考えようとしているところは、そもそもお客さんへの対応や従業員の連携にも力を入れている場合が多いです。刻み食が必要なお客さんへミキサーやハサミを使えるように用意していたり、視覚障害のお客さんへ料理を置いている場所をわかりやすく伝えたりなど、よくわかっているお店もあります。(でも、残念ながら数は少ない。)もし、要望しても理解されない場合、外食をすることに億劫になったり、そのために友人と出かけることも遠慮したりしてしまうことがあります。
そして、教育と就労は、絶対に選択肢を狭めてはいけない分野です。本人の能力で進めない学校や職種はあると思います。しかし、手に職を付けたり、資格を取ったり、学問を極めたりするための学校が「障害」に対応していないということは、平等ではありません。小中高等学校も、介助が必要だという理由で地元の学校に通うことを断念してしまうことがあります。それは、本人の能力とは関係ないのに!腹が立って仕方がありません。そして、さらに、職場のバリアフリーや障害への対応ができていないことにより、応募すらできないといった厳しい状況が待っています。
それでも、働かないと生活できない、働きたいという思いから、なんとか「障害」のことを理解してもらえるように、色々試行錯誤します。やっと就職を手にして、働いたとしても、トイレに思うように行けず膀胱炎や褥瘡(お尻が圧迫されて腐ってしまう)になったり、障害が重度化してしまう人も少なくないと思います。
仕事自体も大変なのに、自分の体のメンテナンスさえもうまくいかず、パワーが減っていくばかりになってしまいます。仕事のストレスは誰でも持っています。しかし、もともと人より体や気持ちのメンテナンスが必要なので、そこにかかる重力を無視したままでは、身が持たないのも当然のことです。
私は、働けるうちは、周りの人と同じように働きたいという思いで、体を酷使していた(使いすぎていた)ところがあります。その代償(跳ね返ってくるもの)は大きいので、早いうちから対応することをお勧めします。
人生は長距離マラソンのようだと思うので、呼吸が乱れない程度に。
生き生きと暮らす「同じような障害者」を見て、自分にはできないと思ってしまう
私は、自分が悩みのどん底にいた時、生き生きと暮らしている障害者の人を見ると、さらに落ち込んでいました。「私は、こんなふうに生き生きとできない」「私とは遠い存在だ」などと思ってしまうのです。
私自身も、周りの方々から「Noboriguchiさんのようにはできない」「うちの子は違うから」と言われたこともあります。
ピアカウンセリングとか、ピアサポートといった言葉があります。「同じような境遇にいる仲間とサポートし合う」といった考え方です。障害者だけでなく、ママ友やパパ友の集まり、定年退職したおじ様のクッキングスタジオなどの場合にも言えます。同じ境遇だからこそ分かり合える仲で助け合うということです。
それをうまく利用できると良いのですが、私は、「同じ境遇なのに、私と違って生き生きとしている」「考え方が違う。私が間違っているのかな」と不安になったことがありました。そこでパワーが半減してしまった!なんて、もったいないことをしたなと思います。
私は、「同じ境遇の人」のパワーを「良いとこどり」して、「自分にとってパワーが回復できそうな考え方だけ」を取り込んだら良いと思っています。絶対に「同じ境遇の人」じゃないとわからないことはたくさんありますから。
たとえ、考え方が違うところが見えて、自分に自信がなくなりそうになっても、全てが同じ人間はいないので、一人ひとり違う個性だと思って、自分の大事にしていることをもっと深めるきっかけにしたら良いと思います。
「障害者」だからこそ感じる悩みを「普通の悩み」として聞いて欲しいのに
カフェでランチをしたり、道端で井戸端会議をしながら、「こんなことあってさー」と愚痴を言いたい時があります。特に解決しなくて良いと思っていて、ただ聞いてほしいことってたくさんありますよね。悩みが小さいうちから愚痴をこぼしておいた方が気分がスッキリして、悩んでいたことさえも忘れることも多いと思います。
障害者やその家族などの相談に乗ってくれる相談室で話しても良いのですが、生活の色々な困りごとって、日常の中で消化できることが一番です。「デイサービスの職員さん、全然話聞いてくれないのよ!」「え!それはイライラするね!」と会話するだけでスッキリすることだってあります。
愚痴を聞いてくれる友人が、同じ境遇の人だとわかってくれることが多いし、同じ境遇じゃないと逆に気軽に言えるってこともあります。知らないからこそ、純粋に聞いてくれる場合もあるのです。
私が「仕事をしていると体がきつくてさ」と話した時、友人は「ほんと、健常の人でも辛いんだからさ、もっと辛いよね。温泉でも行くか!」と受け止めつつ、申告にならない返事をくれた時は救われました。
それが、「やっぱり障害って大変だね」とか「私は同じ立場じゃないからわかってあげられないけど…」と言われると、あ、言わない方が良かったのかなと思ってしまいます。「そんなことわかってるけど、聞いてほしいだけだもん」…それに尽きると思うのです。
パワーが減ってしまいそうになったら
ここに挙げたことは、どれも「パワーが減らなくて良い場面で、減らされている」状況です。「いつの間にかパワーを消耗していた」「元気がなくなっていた」のでは、本来の力が発揮できず、大切な場面で自分らしさを出すことができなくなってしまいます。
そもそも元気がなくなってしまうのは、自分のせいではなく、環境が自分に合っていなかったり、見えない圧力でいつの間にかストレスを抱えているからです。
パワーが減っているなと感じたらすぐに、なんでだろう?と間違い探しをするかのように「ここでストレス抱えているかも」と見つけたり、全く違うことをしてリラックスしましょう。
自分と、環境とを切り離して、自分の気持ちが軽くなることやものを探してみましょう。