生きる

「JR乗車拒否」と批判について、どう考えるか

4月に入り、春を迎えました。関西では桜がほとんど散りましたが、北海道ではこれから桜が咲き始めるのでしょう。同じ日本なのに、季節の移り変わりの時間が違うのは、本当に不思議です。

「JR乗車拒否」と言った伊是名さんの状況と、駅の状況と、周りの反応の背景には何があるのか

そんな中、あることについて考え、整理をしなくてはいけないなと思い、ブログを更新します。それは、伊是名夏子さんのブログで大きく取り上げられている「JRの無人駅をめぐった車椅子利用者への対応」と「周りの反応」についてです。

旅行先の宿泊場所の最寄りだった駅が無人駅で、エレベーターがなかったために、その駅よりも前の駅で降りるよう駅員に言われたことから始まっています。(詳しくは、伊是名さんのブログや他の記者の記事をご覧ください。)

まず、私がもし同じ状況にあったら、伊是名さんと同じように、駅員の方々に電動車椅子を持ち上げてもらって、予定していた駅で乗り降りをしようとしたと思います。大切なのはそこからで、お互いの限られた状況の中で、「今、どうするか」「少し後には、どう改善できるか」「長い期間を考えて、どういう計画で改善していくか」の話し合いができるかです。

お互いの限られた状況とは、伊是名さん側は「到着駅の地図を調べたけれど、いけると思った」「すでに宿泊先などは決まっているから、その駅じゃないと困る」「タクシーは車椅子で乗るためには、予約が必要で急には使えない」などの状況があったと言えます。一方で、駅側は「事前に知らされていないから、急に駅員を手配できない(知っていたら、対応の方法は考えられた)」「他の駅のことだから、管轄外」などの状況があったと思います。

そこに、「乗車拒否」「障害者のへ差別」「合理的配慮がない」といった言葉で、今回の状況を社会全体で考えたほうがいいという声を上げてくださった一人が、伊是名さんだったのだと思います。

目立った批判の多くを見ると、「事前の予約をすべき」「電動車椅子を持ち上げさせるのは大変」という思いから、「わがまま」「健常者にやらせるのか」という感情が起こり、さらに「人権」に対する拒否感が生まれ、「そんな訴え方は逆効果ですよ。」と反論するといった一本の筋書きができてしまったように思えてなりません。

表に見える行為だけに反応するのではなく、その背景のメッセージに「意見」しよう

しかし、それらの批判は、伊是名さん側の「その時点の状況」に対するもので、本当に訴えているメッセージとごちゃ混ぜにして、正当化しているに過ぎないと思いました。それらは「意見」ではないのだと思わざるをえません。

本来は、たとえ個人的なネガティブな感情が芽生えたとしても、「『自分』もこの社会のメンバーとして、『無人駅でも誰でも利用できる環境づくり』はこうしたら良いと思う」と付け加えることが「意見」なのだと思います。

もし、30年も前に同じように運動してきた障害の方々がいたからエレベーターがついたという流れを知っていれば、「電動車椅子を持ち上げるのは危険が伴うから、事前の電話はするべきだと思うけれど、個人でその状況の責任を取る必要はないし、世の中の人はこの状況を知らないままだから、全ての無人駅でどう対応しているか意見交換して改善したらどうか」と、具体的に「意見」を言うこともできます。

もし、そのような歴史を知らないのであれば、「車椅子の人が無人駅を使うなんて考えたことがなかった。電動車椅子を持ち上げることまでするなんて、びっくりしている。駅員の腰は大丈夫なのか。」と言うこともできるわけです。

SNSやインターネットは、心を締め付けられるくらい辛い言葉を目にするし、簡単に発信できるので、自分の手の届かないところで、発信された言葉の意味が変な方向に行ってしまいます。なので、今、色々出ている「声」は、社会を良いものにしていく「意見」なのか、そうじゃないのかに区別していくといった、うまく振り分けて考えることが必要だと思いました。

「そこまでしなければいけなかった」理由と長い歴史を知った上で、これからどうするべきか

私が障害者として生きてきたという立場で知っていることは、「そこまでしなければ、多くの人は考えたり、改善したりしてくれない」ということが多かった、そして今もある、ということです。「二本足で歩くことができる人用」に、多くの家、学校、ビル、会社、店、交通機関などが作られてきました。そうではない人、例えば、障害者、高齢者、ベビーカーを利用している家族などにとっては、使いづらいところがまだまだ多いのです。そして、ベビーカーでさえも、周りに嫌な顔をされたり、高齢者は足を上げないと乗れないバスに悪戦苦闘したり、そのうちの一つに、エレベーターがないと車椅子で自由に利用できないという課題があるのです。

障害者でも本当は働ける人が多いのに、会社に段差があって車椅子では入れない、長時間労働できない者は必要とされない、介助が必要なら福祉サービスを受けても良いけど、仕事中は介助を利用できないなどの障壁があって、「障害者が働く姿」が見えない状態が続いています。働くと言うこと以外でも、生活場面や、今回の交通の場面などで、本当の社会の課題を見えなくさせているのです。

その「見えない状況」から、こんな課題があるんですよと「見える状況」にするためには、やわらかく伝えても、目にも止まらない。かといって、大きく伝えたら、批判を浴びてしまう。同じSNSというツールを持っていても、少数派の意見は、大多数の人の「同じような声」に覆い被されて、結局、本当に議論することってなんだったのかと「見えなくなってしまう」のでしょう。

歴史的に、多くの車椅子ユーザーが階段の駅しかない時代であっても、駅を使おうとし、バスに乗車拒否されても、バスジャックして戦った。全く同じことを繰り返すことがいいことだとは思いませんが、歴史から学ぶしかないと考えると「そこまでしなければ、わからない人が多かった」という事実があると認識しなければなりません。

「一過性の個人への批判」から「長期的に環境を良くするための意見」へ

そして、今も、その状況は変わっていないのだと思ってしまう、この一連のできごとは、私にとっても「怒り」や「悲しみ」が起こります。一方で、健常者の立場で考えたときに、「障害者だけじゃなくて、自分たちも選択したくてもできない時があるんだよ」と「怒り」が込み上げる方もいるのだと思います。もちろん、「みんな苦労しているんだよ、我慢しているんだよ、もう!」という疲れた思いを持つのは自由です。

しかし、個人へのその場限りの批判ばかりをし、その話の先に何も良いものが生まれないのだとしたら、時間やエネルギーの無駄遣いになってしまう。本当は、「疲れていても、どんなに体や色々なところが使えなくなってきても、変わらず働き、生活し、人生を作れる社会」を冷静になって考えるべきなのだと思います。

だから、「その時点で何をすべきか(緊急的に対応するべきことは何か)」「その後、短い期間で何をするか」「長い期間、どういう計画で改善するべきか」を順を追って、考える必要があると思っています。

できごとの当事者は感情的になったり、声を大きくして言わないといけないと思うのは自然なこと

私は、普段の頭の中でも、ごちゃごちゃになるくらい色々考えてから、シンプルに考えようとすることが多いです。そのため、その途中で沸き起こった感情や思いを言わないままでいることが多いので、きれいごとを言っているように思われたり、無感情だねと思われたりすることがあります。

これまで、私も「障害者であるために、障害のない人と同じように学校や職場に行けない」「電車やバスに足を一歩乗せるだけで利用できれば良いけれど、車椅子を利用しているので今の環境ではどうすることもできない」という経験を積んできて、「いつまでもスタートラインに立てない悔しさ」と「それを理解してくれる人が少ない」という見えない圧力に、心がかき乱されてきたことは何度もありました。

そんな中、色々な感情と自分自身が向き合い、悔しくて批判したい時があったとしても、どう改善していったらいいのかを考えるには、原点に立ち返るということが避けては通れないことなのだという考えに行きついています。でも、「今のこの瞬間の私」がそう思えるだけで、同じ状況に立たされていたら難しいです。自分自身が大変なのに、そこまで優秀に、物分かりの良い人になるのは大変です。

「自分が経験していないこと」は、教わらないとわからない

そして、やっぱり社会の生きづらさを目の当たりにした人が声を上げないと、「今はそんなことを感じない人」にはわからないのです。私も、点字ブロックの上で車椅子を走らせていたら、白状ついた視覚障害の人にぶつかった経験をして初めて、「点字ブロックの上で歩いちゃいけない」ことを意識するようになりました。さらに、視覚障害の人にとって、点字ブロックが唯一の方向を定める手段だということに気がつきます。もっと進んで、本当は、点字ブロックの数がかなり少ないのでは?と想像できます。本当は、もっと手段があれば、目が見えずらくなってくる人が増えても、安心して歩ける社会になるのではないかと。それ以外にも、色々な社会の課題を考えると、「これで十分でしょ」と言えることは少ないのではないでしょうか。少なくとも、経験していないことなら、「これで十分でしょ」は、他人が言える言葉ではありません。

これからも交通機関を使いたいし、これまで試行錯誤してくださった駅員さんや色々な方のことを思い出して

今回の件で、怖い思いをする必要はまったくなく、むしろ「悪状況でも試行錯誤して対応してくれた人がいたこと」を思い出す機会にしたいと思います。そして、まだ表に出てきていない、「バラエティのある意見」があるはずです。旅行や仕事、友人宅へ行く、実家に帰るなどの日常を、誰でも利用できる交通機関を通じて、実現していく。それが当たり前になるための対話を色々な人とできたら良いなと思うだけです。

 

色々言葉を考えて書いてみましたが、100%伝わるまでには、生きている限り修行ですね。

 

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