これ以上ない感動を経験したとき、本当になにも言葉が出なくなる。悲しい、悔しいという感情もそうだけれど、それとはまったく逆の嬉しい、楽しい、感きわまる感情もそうだ。さらに上をいくと(上下のレベルはないかもしれないが、あえていうならば上という意味)、どの感情にも当てはまらない「無」があると思う。

この前の関西への旅で、京都の本願寺を訪れた。京都に住む車いすユーザーの友人に案内していただいた。JR京都駅から徒歩ですぐなのにも関わらず、駅構内の人混みのざわつきから一変して、本願寺に近づくと、その偉大さと静寂な空気にすでに圧倒された。
なんども訪れている友人は、車いすユーザーなので、どこにエレベーターやスロープがあるかを全て把握していたので、スムーズにお寺の中を回ることができた。しかも畳の上でも車いすでokだった。そうじゃなかったら、一番感動した仏様の前まで行けなかった。
仏様がいる御堂(このような呼び方が正しいかわからない)に入ると、すでにいた人はそれぞれ座りたい場所に正座で座り、仏様を見つめたり、目を閉じていたりしていた。仏様に近づけるギリギリの前までいた人、部屋の中央にいた人、遠くから祈っていた人。人はいるが、その空間は「無」だった。どんなに人数がいても、仏様の「無」の境地は変わらないだろう。
私も、その友人たちも、仏様の前にしばらくいた。なにも言葉は出てこないし、言葉で表せられないこそ、本当の私なんだと思った。こんなに「無」になったのは、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に行った以来である。多くの人の手で何世代にもわたり作り上げてきた建物には、なににも例えられないほど偉大さがある。そして、常に多くの人の出入りがあるのに、空気の清らかさはずっと変わらない。
こんな場所が駅のそばにあるなんて、うらやましいと思った。日常で「無」になれる場所は一つでもあった方がいいと思う。「あれ・これできない」「なんで、いつもこうなんだ」「あの人のここが嫌だ」「めんどうだな」などと思っていたことが、すべて必要なかったことなんだと思わずにはいられない。
この感動を忘れずにいたいと思う。