今年もあと1週間で終わっていく。だいぶ前に見たテレビで、歳をとっていくほど、子どものときよりもイベントや新しい発見がないので、ただ同じ毎日が過ぎ去っているように感じやすいと言っていた。若いときほど、周りから与えられたチャンスは新しい経験ばかりで、刺激を多く感じ取りやすいのかもしれない。そして、大人になってくると、「今年も早く終わったな〜。」と毎年の決まり文句をつぶやくのである。
しかし、どこか心の中で、今の自分から変わっていきたいと変化を求めている気持ちがある。思ったことがあっても言えない自分、表情をうまく出せない自分、自分から行動できない自分、都合の悪いところはスルーして無視してしまう自分などなど。ある人はどうしても自分を変えられないと真面目な顔で話していた。逆に「あの人は全然変わってくれない。」と他人の変化を求めてしまうときもある。

私も以前は、自分の変えられないところに悩んでいたときもあった。今でさえも変わっていないかもしれない。例えば、私は、周りの状況を見てから自分の行動を考える癖が強かった。だから、以前に福祉関係の支援者に「周りの顔をうかがっている」と評価をされていた。その状況だけを切り取ってみれば「正解」なのかもしれないが、評価される立場から見ると「簡単に分析しないでほしい」と思ってしまう。
一番大事なのは、自分や他人をそのように分析したのであれば、どうすると気持ちが楽になるのかを一緒に考えることだと思う。人生はこの先長い。自分や他人がこの先、生きていく中で、自分の持っている癖をアレンジしながら、どのように楽に生きていくかを考えるのが大切なのではないか。
私の場合、周りの状況を最優先しなければ、介助をする職員に囲まれた施設生活を生き抜くことはできなかったからだ。そう、「その場を生きていくための身につけてきたワザ」であり、積み重ねてきた歴史なのだ。私は自分のことをそういう風に受け入れているから、他人の癖などはあまりに気にしない。
もし、癖に悩んでいるのであれば、私ではなく本人である。癖に悩みすぎて、生活や仕事に支障が出ているのを見かければ、何かしら手を出すかもしれない。例えば、ヘルパーさんでうまく私の指示を汲み取れない場合に、(まず私が困ってしまうので)その困ったことだけ話し合うようにしている。その背景にある、その人の癖は簡単には直せないし、直そうと思うことが失礼に当たってしまう。なぜなら、その本人が抱えてきた歴史に、他人は何もできないからである。それくらい大切な歴史でもあるのだと思う。
私の抱えてきた癖は、私の経験でしか変えられない。まずは、自分を優先してみる行動を「小さいことからやってみる」、周りの状況を見れることは一つの能力だと考える、カウンセリングに通ってみるなど、いろいろやってみる。そのように自分と向き合ってみると、いかに難しいかを体感し、「他人をコントロールして、変わってもらう」ことが失礼にあたるかを本気で思うようになるかもしれない。
他人をコントロールしてしまいそうになるのは、人を雇う立場、親の立場、誰かを支援する立場などに起こりやすいと思うので、注意が必要だ。自分が思っているほど、他人は早くに変化しないのでイライラしてしまうことになりかねない。
自分の関わりのある相手が幸せになると、その変化を嬉しいと思うのはごく自然なこと。相手に対しては、そこで留めておいて、自分の小さな変化を気づいていくことに集中しよう。社会に揉まれる前の子どものころのように、ただただ自分の楽しさを追い求めていったように。
そうすると、1年はあっという間に過ぎ去る時間ではなく、おもしろいことがいたるところに転がっている時間になるかもしれない。