私が前からおかしいと思っていることは、「だれが大変な状況で、だれがあの人よりは大変じゃない」といった、大変さや困難さの大小を比較をすることである。もっと問題なことは、それを全く関係のない第三者が、当たり前のように話していることである。
「福祉の仕事をしている人」に、「あの人は障害が重い、あの人は障害が軽い」といったようなことを発言する人が多いと感じている。それには必ず「障害が重い人は大変でサポートがたくさん必要だが、障害の軽い人はできることが多いから、二人を比べたら、障害の軽い人はそんなにサポートいらないでしょ」という意味がくっついてくる。
例えば、杖をついて歩ける人に対して、「頑張って、どこでも自分の足で歩く」ことを求める。でも、病院内を移動する、買い物で見て回る、動物園に行くなど、その建物内は車いすの方が楽なことも多い。むしろ、楽をすることができるなら、その時は楽にして、「体を休める」「買い物をゆっくり楽しむ」「家族とゆっくり動物を見て楽しむ」などの本来の生活の楽しさを味わうことの方が自然だ。もちろん、車いすで公園を回っていたとしても、「あ、あそこの川の流れを見てみたい」と思えば、杖を使って近くまで歩いて見ればいいと思う。
他にも、異なる障害の人たちを比べて、見た目だけで「あなたは頑張ってやれるでしょ、それがあなたの成長よ」という対応をする支援者もいる。体が不自由で、お茶を飲むことやトイレに行くことなどに介助が必要な人と、歩けるけれど知的障害があり「なんかしたいことしなさい」と言われても、形のないものを一から考えるのに苦労する人がいたとしたら、後者の知的障害の人のことは置いてけぼりにされてしまうことがある。
いずれも、本人がどう感じているのかを無視した状態で、「勝手に他人がその人の苦労度を図っている」のである。しかも、もっと頑張ること、自分でできることが「あなたの成長よ」と付け加えられてしまう。
どうして、人は「楽をすることに批判的な目で見る」のか私にはわからない。人は重力に逆らって歩くだけでも負荷を受け、それを何十年と続けることになる。少し車いすに乗ったくらいで「歩けるのに、サボっている、楽をしている」と他人が批判をし、見た目ではわからない困りごとを想像することなく「あの人は、この人よりもできる」と勝手に判断してしまうのはどうしてなのだろうか。
どんな人でも、1日の生活のスケジュールを考えても、「面倒だからレンジで温めた食事で済まそう」、「歩くのがしんどいからエレベーターを使おう」、「今日は洗濯はしなくていいや」と体力や気持ちの使い方を調整しているのである。
また人によって苦手なことは違っていて、「朝起きるのが苦手だから、モーニングコールを友人に頼もう」、「料理が苦手だから、コンビニで済まそう」、「歩くのしんどいから、自転車を使おう」、「夜眠れないから、友人と楽しく話しをしてから寝よう」などと、何かの力を借りて、自分の苦手なことを補っているのである。
福祉の仕事している支援者は、障害者や高齢者に対して、「甘やかしたら、できなくなってしまう」と思っている人は少なくない。仕事柄、常に評価をする立場だからなのだろうか。その評価は、そういうことに使うためにあるのだろうかと疑問に思う。福祉関係の教科書や制度の文言、福祉の仕事に就いている人の会話で、障害を「重度」「軽度」という分類の言葉を使っている。私は、便宜的に(とりあえずの表現として)使っていると思っていないと、それぞれの状況にいる人々にしか感じない生活の苦労を見落としてしまうと思う。
私はいつも講演で話しているのだが、「過去に自分がされてきたことは、自然と無意識に他人にもやってしまうことが多く、子どもの頃から『あんたはあの子よりも幸せよ』『できるまでご褒美は抜きよ』などと言われて刷り込まれてきている」のではないかと思っている。安易に比べてしまう人には、自分が困った時の助け方や、周りへサポートを求めることなどを教える人がいなかったのかもしれない。
みんな、それぞれ、小さくてもたくさんのことを物や人に頼って生きているはずなのに、特定の誰かがその評価にまみれてしまうことが問題だと思っている。
そんなことを障害のある友人などから相談を受けることが多いし、私自身も感じてきたことだ。これまで受けてきた教育や常識、専門的な言葉に、私たちはただ流されていないだろうか。障害のある人だけが心を痛めてしまう問題ではないのだ。