今日も夏。外はかなりの暑さ。
でも、私の心はちょうど良い温度だ。
私は、40歳になって、気持ちが楽になった。もちろん年齢なんてただの数字でしかないけれど、10代、20代、30代と目に見えない何かにとらわれて、こういう年代だったらこうあるべきだと言われているように感じていた。楽しいことも、悔しいこともたくさん経験してきたのは満足しているけれど、違和感はどの時代も持っていた。
単刀直入に言うと、私はヘルパー生活を20代からしてきたが、今でもこの生活には慣れない。私と同じようにヘルパーさんを利用しながら生活をしている20代の脳性麻痺の友人が、「ぶっちゃけ私は自立生活向いていない。でもやっていけてます」というメッセージを発信していた。私と一回り以上、歳が離れているけれど、ヘルパーさんとのちょうど良い距離の取り方が必要だとか、ヘルパーさんと関わりながら生活を築いていくことの難しさについて、正直に弱音を吐いてもいいのだと考えているところがよく似ている。
年代を超えて、通じ合っていることがとても嬉しい。
私の中の20代も、喜んでいる。
広い視点で見ると、どんな人も、SNSなどで情報に触れれば触れるほど、幸せどころか、何かに振り回されている感覚になったり、気がつかないうちにネガティブな言葉を口から吐いたりしてしまっている。そして、人間関係においても、どこかで耳にした言葉や、自分に言われた言葉にいつの間にか影響されてしまうのが人間で、ポジティブなことは忘れがちなのに、ネガティブな思考が伝染しやすい。さらに、そのネガティブな言葉を他人に投げてしまうことが多い。
私は、自分自身の状況も、他人の状況もそういうことに敏感な人で、状況が良くないことをすぐに察知することができる(ようやく最近自覚するようになった)から、自分から環境変えようとするし、自分のノーマルな平和な状態に戻そうとする。
ただそこでうまくいかないのは、他人のこと。自宅の中で利用者とヘルパーさんが一対一の空間になってしまうため、どちらかの状態が悪いと一方的に怒ってしまうことがある。私はこれまで、ヘルパーさんがあまり良くない状態の時、それをなんとかしようと思っていた。でも、その反動が他のヘルパーさんとの関係を悪くさせた。
だから、もうなんとかするのをやめた。
自分が良い状態になることしかできないのだから、もし相手が機嫌が悪くて、自分に八つ当たりされたとしても、自分が考えることでは無いのだと思った。
正直のところ言うと、なごやかな気持ちになれないと、体の緊張が強く入ってしまい、体を痛めることがほとんどの確率で起こってしまう。もう一つ、「いつもお世話になっているのだからと、相手の気持ちが和むように言葉かけをしよう」とも思って、相手の悩みを聞いたり、その人がポジティブになれるような言葉をかけてきたつもりだった。でも、今の友人関係を見てみると、きちんと私の意見を伝えて話し合ったヘルパーさんの人の方が、今でも付き合いがあって、逆にとても濃い関係を築いている。
体に緊張を入れながらであっても、きちんと伝えて、それに答えてくださった方は、私と長く付き合える方なのだろう。
一方で、それを何度もやらなければいけない関係性であれば、おそらく私の体にとっても良くないし、心にとっても良くないだろう。きっと、そこまでの関係性だったのかもしれない。(相手にも事情があるので、それ以上、その人を悪く言う必要もない)
だから、自分の体と心のセンサーを軸にして、今の関係性が自分にとって必要なものなのか、どうかを判断してもいいと思った。
そこまでに至るまでにとても時間がかかった。
なぜなら、私は一生懸命生きていたからだ。とにかく、新しく来たヘルパーさんに伝えていかなければいけなかったし、関係が離れていてしまう人とは決別しなければいけなかったし、それでもまた新しく来るヘルパーさんのことを信じていかなければいけない。
そのようにして頑張っている渦中にいる障害者の人はたくさんいるだろう。
もちろん、そこで働きながら葛藤しているヘルパーさんもいるだろう。
あるヘルパーさんは、「介助の仕事は、自分のことをかなり見つめなければいけないから、辛い時がある」と話していた。
どう見つめているかは人それぞれだと思うけれど、私も「ヘルパーさんにとっては、ヘルパーの仕事は自分を見つめざるを得ない仕事の1つ」だと思う。
それはきっと、「人の人生の一部に触れるということ自体が、自分の人生とは違う状況に立たされること」だからだと思う。
ましてや、「健常者の考え方では、障害者としてこの社会で生きようとした時、自分そのものを受け入れて生きることができない。だから、障害者の生き様は、これまでにはない新しい考え方や人生なのだから、健常者にとっては当たり前だと思っていたことが当たり前ではなかったことに直面する」からだろう。
私は、このことを回りくどく伝える時間は無いと思っている。
なぜなら、他にももっともっと可能性があり、楽しいことがたくさんあるのだから、大切な事ははっきりと伝えるべきだと思った。
そうすることで、私は家族のために時間をかけられるようになったし、友人のことを思いやったりすることができるようになったし、そして自分自身のことを大切に考えられるようになった。
だから私は、伝えることは伝えて、相手がどのようにそれを消化していくのかは、その人に任せるしかないと思った。もっと聞きたいと思えば、相手から聞いてくればいいし、もっと学びたいと思えば、相手から来ればいい。私は十分に、発信しているのだから。
そして、私自身も、もっと伝えていきたいこと、学んでいきたいことを遠慮せず、いろいろな人と関わりながら発信していきたい。
今日の私の本音。出来上がりました。
ご覧いただきありがとうございました。