今日も1日が終わろうとしている。「また、〇〇日に来ますね。お願いしま〜す。」とアシスタントが帰っていった。また、夜間のアシスタントを待ちながら、束の間の一人の時間を過ごしている。突然、文章を書きたくなった。かなり久しぶりのブログ。何を書こうか何も考えていないが、この静かな空間でいきなり言葉が浮かんできた。
わたしは、近々、今の地域を離れてまったく別な場所に住む。気候も、文化も、言葉も違う場所だ。その準備が着実に進んでいるが、まだやることがいくつかあるため、落ち着かない。少しでもやることがあると、頭の中でいつも何かがチョロチョロ動いている感覚だ。落ち着かない。でも、これからの新しい生活にワクワクしている自分を落ち着いて見ているようだ。
わたしの友人によると、わたしは少し変わっているらしい。いや、変わっているとは言っていない。
少し説明してみよう。わたしは、物理的に離れていても、離れていて寂しいと思ったことはほとんどない。同じ地球に住んでいるのだから、つながっているでしょ。今はインターネットの時代だし、どこにいてもつながることができる。それに、今までと違う環境にいても、あまり違和感を感じない。バングラデシュで蚊がたくさん部屋の中にいたときや、イタリアでコテコテの味のパスタが出てきても、その環境にある自然なものとしてしか思っていないので、「日本ではこんなんじゃない」とか、比較などまったくしない。
だから、新しいことや新しい人が入ってきても、物怖じせずに、ただただ、そのままを受け入れてみるのだ。その柔軟さは、だれにでもあるのではないようだ。そこがすごいのだと友人は話していた。
人が変われば、生活の仕方が違うし、集まる人が変われば、そこで作り上げる文化や言葉は違ってくる。そして、それはいつも固定されるものではなくて、時間や社会の状況によって変わっていく。それは自然なことだし、それが不自然になっている場合は、生きづらくなってしまう。
例えば、わたしが病院や施設で暮らしていたころは、障害のある人とその介護で働いている人との関係性で生活するしかなかった。それ以外の、例えば、障害のない友人や恋人、近所の人々、スーパーや郵便局の人、粋のいい八百屋さんのおじさんなどと会うことがなかったのである。
友人と羽目を外して夜中に出歩くことも、近所の人と世間話をすることも、八百屋さんに旬の野菜を聞くことも、どこかのタイミングで恋人関係になることもないのである。
きっと、その閉ざされた環境にいた時間が長く感じたからこそ、今の生活を初めて10年以上経ってからも、何もかもが新鮮に思えるのかもしれない。
そして、今の住んでいるところでたくさんいい人に出会えたけれど、今のわたしは、もっと刺激のある何かを求めて旅に出たいのだと思う。
いずれは、どこかに落ち着くのだろうけれど。
落ち着きながら、頭の片隅で、新しい何かを探し続けている。
そろそろ次のアシスタントが来る。ゆっくりしながら、アシスタントが来たら今日はすぐに寝ようと計画を立てるわたしであった。