地域の中で生きるということは、人々の流れ、 風や木々からもれる空気、 車や電車が走る音、 太陽の暖かさのにおいや雨のしずくの冷たさなどを感じることである。 ほとんどは記憶に残らない。 ゆいいつ記憶に残ると言えば、うっとうしいというだるさ。そしてほんの少しの「ふつうが一番いいよね」という気づきだ。 その気づきはつかの間で、また少しでも嫌なことがあると忘れてしまう。人間らしいといえば人間らしい。
ただ、それは障害者としての私にとっては、少し迷惑な話である。どこが迷惑かって? そういった当たり前のことに気づいている人が少ないことに腹を立てているのだ。
福祉の考え方や、福祉の仕事をしている世界の中では、「障害者が地域で生活するようになったから、サポートが必要だ」と考えている人が多い。そこの時点ですでに間違っている。もうずっとずっと前から、むしろ最初から、障害者もあなたたちと一緒に生きているではないか。なにがとってつけたように「地域」というのか。 私はずっとその言葉に吐き気がしていた。
多くの人は、「障害者はできないことが多いからサポートが必要」だと考えている。でも、本当は、二本足で動ける人の環境が用意されているだけで、障害者が劣っているわけではない。ほとんどが最初から用意されているから、多くの人にとって当たり前になっている。ちょっと高い所には段差があるから登れるし、ビルには階段があるし、机や台所、自動販売機、切符の券売機、会社のプリンターの位置だって、 使いやすいように作られている。
もし、体が不自由になって車いすが必要になると、世界は一変する。いつも行っているコンビニには段差があって入れない、家の台所のコンロが高すぎて鍋の中身が見えない、職場の事務所が狭すぎて動けない、友人の家に遊びに行けない……など。
たいていのことは他の方法を使ったり、環境を変えたり、人に手を貸してもらったりすれば、解消される。
問題は、手段を変えたり、環境整備したり、人のサポートをもらったりすることが、特別なことだという認識があることである。
20年以上前は、環境を整えることや、人のサポートを受けることさえも、認められてこなかった。だから、必要な人たちが声を出して、あらゆる決まりを社会に作った。今は、全国の学校でバリアフリー化が進んできているし、学校での介助体制も少しずつではあるが作られてきている。大学やあらゆる交通機関でも、法律があることでバリアフリーを実施せざるを得なくなっている。
障害者が必要としていることは、「あったらいいよね」と愚痴をこぼす程度では絶対に作ってはもらえない。「こういう理由で、必要だ」ということを論理立てて説明し、何度も言わなければいけない。
その一つがエレベーターであって、1970年代から訴えてきて、何十年もかけてやっと、ほとんどの電車の駅にエレベーターがつくようになった。
当時は、エレベーターが作られたのは「特別」だったかもしれない。 なぜなら、本当に必要な人が声を上げたのをきっかけにエレベーターの必要性を知ったからである。全くなかったものを作っていく。それは特別扱いなのだろうか。それとも、本当は必要だったのに、今まで気がつかなかっただけなのだろうか。
本当の必要性に気づくまでに、長い年月がかかる。 多くの人に反対されても、その必要を訴えて、半ば強引に作らせた。それだけでも時間がかかる。
できたらできたで、多くの人がエレベーターを当たり前に使うようになった。今では、歩きたくない人やスーツケースを持っている人も利用する。みんな、いろんな事情があるから、車いすじゃなくてもエレベーターを使っていいのだ。
でも、どうして便利なものができたのか?という思いを巡らせる人は少ない。ほとんどの人は、これまでにも当たり前に階段という手段を使ってきたように、今回もその延長線上で、「ちょっと便利になったという程度の想像」で止まってしまうだろう。
「 エレベーターの必要性を訴えなければ、相手にしてもらえない」 という経験をせずに済んだ人が多い。
とても皮肉めいてしまったが、そのように表現するにはワケがある。しつこいくらいに言うが、多くの障害者は、バリアフリーの必要性を訴えると煙たがられてきた。「障害者へのサポートは特別にやってあげることだ」と社会から言われ続けてきた。だから、そういった見えない圧力のせいで、障害者やその家族は、できないということに負い目を感じたり、制限され続けて反発して怒ったり、いい人生を送れないと思い込んだり、周囲に遠慮してしまったりする。
本当は、この世の中が「障害者にとって生きづらい社会」なのに、個人のせいにされる傾向がある。
実は、個人のせいにしようとする人の中に、福祉の分野で働く人も多い。そういう人はたいてい、なぜか、障害のある本人を指導したがり、成長できたかどうか評価する。「先月より人とのコミュニケーションが上手になったね」と評価することで、専門家ぶってしまっているなら、今すぐに自分自身の成長に集中したほうがいい。コミュニケーションなんて、障害がなくても難しいし完璧にできない。
そもそもコミュニケーションができるか否かじゃなくて、本人が安心感を持って、人と関われているか?そうじゃなければ、何が必要かな?と考えるのが専門家である。障害のある本人が幸せに生きていたらいい、ただそれだけだと思う。
福祉の専門家だって、相手とコミュニケーションを取るために、メールという手段を使ったり、 家族との会話では話すのがめんどくさいからと短い言葉で話したり、外国人には英語が話せなくて、その場から逃げてしまったり、声が出せなければ、筆談やジェスチャーを使ったり、代わりの手段を使うじゃないか。 障害者として扱った瞬間、「私はできる人」「 あなたは経験がない人」 という枠組みで、指導者気分になっていないか、自分の心に手を当ててみてほしい。
そもそも、今の社会で障害者として生きるとき、ふつうなら、なあなあでいいことが、厳しい状況に立たされる。社会の偏見や差別もそうだし、障害者と接したことがない人が多いから説明がたくさんいる。ヘルパー事業所によっては、毎日ヘルパーが入っていても、外出は1週間前に言わないと認めないというところがいまだにある。バスに乗るのに予約が必要な地域もあるし、ふつうの人より気を回すことが5倍くらい多いと言ってもいい。もちろん、もともと、自分の体や心のメンテナンスだってしなきゃいけないことも多い。もう頭も体もパンクしてしまう。
「サポートが必要なら仕方ないでしょ。事前にやればいいじゃん」という人もいる。そういう人は、たいていその状況にいる当事者ではない。もし当事者だったら、その大変さをよくわかっているし、「特別にサポート受けているんだから、障害者も努力して」と言われることがいかに理不尽であるかを知っている。
そもそも、ふつうに暮らしたいだけなのだ。本当は、社会に拒否されてきたから戦わざるを得なかっただけなのだ。障害のない人に対して、個人個人を否定しようとは思わない。ただ、強く伝えないと話題にあがらないのが現実だった。本当は、一緒に考えてくださった方全員に、大きな声でありがとうと言いたかったが、強く伝えたあとは、かなりの疲労感があり、余裕がなくて伝えられなかった。
でも、障害者が直面する課題に自分ごととして協力してくれた人とたくさん出会ってきた。普通小学校に身体障害者トイレを作ることを決めた校長先生、大学で車いす学生も使いやすい設備をつくってくれた職員の方々、当事者と話し合いを重ねて制度を作った自治体の職員の方々など。大きなことだけでなく、喫茶店に段差かあっても手作りのスロープを作ってくれたオーナーの方なども含めて、たくさんの人が、勝手に進めずに、当事者と向き合って、必要なことを把握し、行動に移してくださった。
社会で生活を営んでいる人たち全員の協力があって、ふつうの暮らしが成り立つ。障害者が得するためではなく、誰もがふつうに暮らせるようになるためである。
最初から用意されている階段では、二本足で歩ける人しか使えないので、どんどん新しい方法をアップデートしていくのだ。
そして、階段に悩まされずに、会社や学校に嫌々ながら行って、同僚や友人とグチって、なんとなく1日を過ごす。そんなことも当たり前にできる世の中になってほしい。
社会は、いつだって、誰かの声が拾えていない。
周りが拾えていない声の主は、あなたが当たり前に感じている、外の空気、そよ風を感じられていないかもしれない。
だから、そこに敏感になって、アップデートしていこうじゃないか。