しばらくぶりのブログです。最近は、自分の世界に入っておりました。しばらく更新がないときは、今を集中しているんだなと思ってください笑。
自分の世界に入っているのと同時に、今度は何を書こうか?と思いを巡らせていたところでした。イタリア旅行記も雑多ではあるけれど書き終えて、次はアメリカの旅行記を書きたいなと思いつつ、今の自分はそういう気分ではないことも感じています。
最近は、いろいろな芸能人の方が、所属に関係なく「個人的な意見」を発信しているところを目にします。私はそれを見て、「このかたは、聞いている人のことを考えて、でも自分の意見を伝えようとしているな」「きちんと言葉を選ぼうとしているな」などと、知ることができて、私も発信活動をまたやろうと背中を押されました。
今回は、「書くことって何だろう?」「自分と向き合うこと」「SNS(色々ありますが、ツイッターやフェイスブックなど)で書くこと」についてを考えてみたいと思います。
自分の考えを言葉にすると、自分のことを知るのと同時に、他の人とは違うのだということを感じる孤独感のようなものを持ちます。これはあくまでも私の感覚ですが、「わかる」というのは「分ける」という字を書くのと同じように、「私とあなたは分かれる」ということを意味しているのと同じ感覚です。
さらに、自分の考えを発信することは、
「自分と向き合うこと」なしに進められません。
自分と向き合っていくことは、人生の中で上位5位には入るくらい難しいことだなと思います。ましてや、自分のことを書くことは、「自分をえぐること」なのではないかと錯覚するほど、刺激的で、苦しい。
だって、自分を見ようとすればするほど、嫌なところが見えて嫌なんですもの。家族や友人、恋人などなどとの距離感も、時にはほどほどにしたほうがいいと言いますが、自分と自分の距離感もほどほどがいいのかもしれませんね。そっか、「自分を、客観的に見ることで、自分と分けて考える」ということか。
一方で、
他人のことをとやかく言ったり、
書いたりすることは、簡単なことなのです。
ちなみに、簡単な場合というのは、
「相手に思いやりがない」「自分の思いだけで突っ走る」時です。
ちょっとのストレス発散で、ついやってしまうことはあります。
ま〜、簡単にできてしまうから、やってしまうのです。
でも、「ストレスの原因って、本当は相手にあるのではなく、自分にあるのではないか」と思うことで、他人を非難することをストップできると思います。
そして、「自分の行動は自分でコントロールしないで、何やっとるんじゃい!」と軽くでもいいのでツッコミを入れましょう。
自分でハッと我に返って気づけば、いつでも自分や相手に思いやりのある行動ができるようになるはず。
ただ、そのちょっとの行動が、
「知らない間に、誰かの心を掻き立てて、誰かの心を傷つけている」。
その現象をいとも簡単に起こしてしまうのが、SNS。
SNSの相手は、会うことのない相手ばかり。
発信する人には、何度も書き直して送る人はそうそういないですよね。
さきほど、私は、書くことについて「自分と向き合うので、時に苦しい作業だ」「私とあなたは、意見を言った時点で分かれるので、孤独感のようなものを持つ」と言いました。
SNSって、全くの逆なのだと。しかも、錯覚なのですが。
特に、ツイッターでは、簡単に自分の思いを投稿できて、さらに賛同者からフォローされるという仕組みを持っています。
アナログな人間関係であれば、「ごめんね」と言って話し合えば、修正が効くのですが、SNSでは「自分の発言が遠く彼方へ言って、どんどん拡散されるほど、その真意が曲がって伝わっていく」という危険性を持っていると思います。
自分のことの発信なら、また自分で発信して修正を少しできるかもしれませんが、他人のことを書いたものは修正がほどんどできないのだなと思うのです。
ここでまとめておきたいこと。
「書くこと」の最低限のルールは、
- その内容の対象が誰であっても、思いやりを持っておくこと
- 他人のことを書く前に、自分のことに向き合うことで、書くことの難しさを知っておくこと
- 自分で修正できなくなる発言で、特定の誰かをえぐるようなことはしてはダメ
「自分と向き合うこと」ってとても難しいし、苦しい時もありますが、それも自分のタイミングで休むことはできます。
ならば、他人の「自分と向き合う」タイミングも、狂わせてしまわないように。
今の時代、「書くこと」のスキルとモラルを、子どものうちから勉強するといいのかもしれませんね。