幼いころ、たとえば3歳とか、4歳とか、
そんな小さい時に、周りの大人が話していたことを覚えているだろうか。
きっと、大人たちは、言葉もまだわからない子が
自分たちが何を話したかなんて、覚えていないし、わからないと思って
その点では何も心配せず、話しているだろう。
「みちこちゃんは、今のところ、知能は正常です。」
「あ、はい。そうですか。ありがとうございます。」
「みちこちゃんは、家でも、手や足を動かしたりリハビリしてくださいね。」
「わかりました。そうします。」
「みちこちゃんは、先生に何も話そうとしません。声も出しませんね。」
「そうですか。うちでは話すんですけどね……、すみません。」
実際に、そういったセリフがあったかどうかわからないが、
病院や学校で、私のことを話していることはわかっていた。
その場に、幼い私がいることも、多かっただろう。
本人がいるのに、小声で話したところで、聞こえないわけがないし、
雰囲気は決して楽しい感じではないことは、なんとなく感じる。
あのー、ちのうけんしゃ、したの、あたいなんだけどぉ。
(知能検査)
あたいには、なにも、おちえて、くれないの?
(教えて)
リハビリ、たのちくない。もっと、たのちいことない?
(楽しくない)
へんな、ちろいふくきたひとたち、こわいもん。
(白い服着た人たち)
はなちたら、なんか、あたいのたいせちゅなものまで、とられちょー。
(話したら、) (大切な) (取られそう)
私は35年ほど前、
障がいのある子がリハビリや生活訓練をする療育施設に通っていた。
そこで、H先生という穏やかで優しい女性の先生が担当してくださった。
きっと、今の私くらいの年齢だったのかもしれない。
小学校に上がる前の初々しい、小さいみちこは、大人に心を開かず、
声を聞かせなかった。
時は、たくさん流れた。
いつの間にか、35年も。
ビジネスでポケベルが使われていた時代から、
現在のだれもがスマホを持つ時代へと変わった。
(なんで、そこで例える??)
お互いに歳を取り、私は、肌の潤いがなくなってきたし、
先生はすっかり白髪になっていた。
先日、ご縁があって、先生のご自宅に遊びに伺った。
大人になってから一度だけ、デパートでお茶をしたきりお会いせずだったが、
私が大人になってから出会った友人と知り合いだということがわかり、
今年は実現しようと友人も誘って、一緒にランチをした。
最近の話、趣味の話など、たわいもない話をして。
その中で、H先生は、
「みっちゃんは、子どものころ、
大人にずっと見られてたから大変だったでしょ。」
と、何も話そうとしなかった幼い私のことを思い返してくださった。
H先生は、うすうす感じていらっしゃったのだろう。
私は、嫌な感情だけを残して、大人になっていったから、
35年越しに、そういうふうに言ってくださって、
心が救われたような気がした。
子どもの時は、また先生とこんなふうに話せるなんて思わなかった。
時間が経ち、お互いの心も変化し、時を経て、交わる会話。
だから、大人になっていくのも、やめられない。
でも、「子どもでも周りをよく見ていること」は忘れてはならない。
子どもの自分と、大人の自分が交差する、この瞬間を忘れない。