ランランラン♪と心の中から、歌があふれてくる。実際は恥ずかしくて歌っていないけれど、たしかに心が歌を歌っているようだ。春がきた。桜の満開はとっくに過ぎてしまい、葉桜がほとんどになった。桜と入れ替えに、ふわっと暖かい風が頬(ほお)や髪(かみ)をなでるようになった。こういった季節の移り変わりを肌で感じ、幸せだと思えることはどんなことよりも幸せだ。
桜がまだ残っているころ、かしこまった装いの大人と一緒に、大きなランドセルに連れられた子どもたちが歩いていた。「ランドセルに連れられた」と言ってしまったら、本人に怒られるかもしれない。そう、入学式というめでたい日を迎えて、学校から家に帰るころだったようだ。その大きなランドセルの中には、何が入っているのだろう。新しい教科書?教科書って学校で渡されるんだったっけ?全部の教科書を持って帰るなら、ランドセルに全部は入らなそうだし、そもそも重た過ぎないか。
いつも国語の教科書の表紙に、グランドに咲く満開の桜の下をくぐって登校する生徒の絵が描いてあった。いつものように、「その表紙は嘘を描いている」と冷めた目で見ていた。なぜかというと、北海道では桜の満開の時に入学式を迎えることはないからだ。もちろん、新学期もそう。北海道で桜が満開になるのは、地域によって違うが、4月下旬から5月上旬だ。その時にはすでに、新しい学期を迎えたときの新鮮な気持ちが薄れて、ダラダラし始めるころである。
関西に移って、今回で2回目の春を迎える。いい大人は、新学期だの新社会人だの新しい季節の節目を感じる機会が少ない。だから、桜の満開で春を感じ、ランドセルの方が大きく見えるけど立派に育った小学校1年生を見かけて、自分が子どものときのことを思い出そうとする。
関西では、桜の花びらがひらひらと散っていく景色とともに、入学式を迎える。ランドセルに連れられた子どもたちは、もう短パンを履いている。国語の教科書の表紙は、本当にある景色だったんだな〜と30年以上経ってから気づいた。
小学生になったばかりのころは、筆箱を開け閉めするだけでも心が躍ったし、ま新しい教科書をランドセルに入れるたびに身が引き締まる気持ちがしていた。プリントばかりがどんどん増えて、ひらがなやカタカナ、数字をたくさん書いた記憶がある。一つ一つのことが新鮮で6年間の時間の流れがゆっくりだった気がする。
さて、入学式にウキウキで背負ったランドセルは、いつまで使っているだろうか。今思うと、しっかりとした作りの高級なカバンなのに、「ダサい」という大人びた気持ちが芽生えてしまい、リュックに変えてしまったことはやっぱりもったいなかった。最初、ランドセルの方が体より大きくて、連れられている感じが強かったのに、すぐに体の方が大きくなり、しまいには部屋の隅っこで眠らされてしまうなんて。
ランドセルがあるからこそ、周りの大人はお祝いをすることができ、子どもたちも「また一つ大人になったよ」と誇らしげになれるのだと思う。
そんな新鮮な気持ちをいつまでも持ち続けていたいと、自己反省をするのだった。
