くらし

ホイップクリームココアとともに

いつもの耳の遠いおじいちゃんが、いつものように声をかけてくださる。喫茶店の脇に私の視線より低い本棚がある。おじいちゃんが愛読していた本が本棚にぎっしり詰まっていて、それらの本は自由に借りても良いという。パーテンションのすぐ隣には、図書館があるっていうところも、この喫茶店のおもしろさが際立つ。注文したココアを待っている間、本を眺めるために本棚に近づく。するとおじいちゃんは、自然な流れで有川浩の図書館戦争の本を取り出し、これはおもしろいです、と勧めてこられた。すぐにはピンと来なかったが、おじいちゃんの解説が続く中、阪急電車という小説を書いた人と同じだとわかった。あー、読みたいと思っていた本だ、と思ったのもつかの間、おじいちゃんが私の脳みそを見ていたかのように、阪急電車が出てきた。阪急電車とともにテーブルへ着くと、ホイップクリームがたっぷり入ったココアが出てきた。

先週末は、人生で歴史に残るくらいの良い日だった。自分の胸にいつも引っかかっていたものが、ふとした瞬間に角度を変えて落ちたような感覚だった。その突っかかっていたものは10年以上居座っていた。

ずっと、日々、何かに負けないように必死になって、目の前のことを頑張っていた。変わる変わるひっきりなしにヘルパーが来て、お互いに打ち解けあっていようがいまいが、生活のすべてをさらけ出さないといけない。まるで、まだ20代の青い頃から、信用しきれていない目の前の大人や、社会全体が、有無を言わさず、自分に押し寄せてくるような感覚だ。

ヘルパーが「生活のことで必要なところを手伝いに来ました。」という雰囲気でいてくれたら、生活のリズムは流れるように進んでいく。しかし、それぞれのヘルパーはそれぞれの過去を持っていて、抱えているものがある。それは目に見えないから厄介だ。その上、目に見えないのに、ヘルパーとして私の生活をサポートしてくれる中で、それらが垣間見られることがある。几帳面な人、面倒くさがりな人、優しすぎる人、人に厳しすぎる人、細かいことを気にする人、細かいことは気にしない人など。自分とまったく同じ人はこの世にいないとなると、私の洗濯物をたたんだり、私の台所で料理をしたり、私の体を洗ったりするたびに、その違いを目にすることになる。

それよりもっとすごい違いがある。それは、障害者への見方や、ヘルパーの仕事に対する考え方である。単刀直入で言ってしまうと、「障害者はかわいそうだから手伝ってあげる」と思っている人は、すぐにこの仕事を辞めてしまう。「障害者は、いろいろ要望を言ってくるからわがままだ」と思っている人は、そもそもこの仕事は選ばないはずだが、間違ってきてしまったら、なおさら厄介。自分のことを棚に置きすぎである。障害がなければ、水を飲むタイミングやコップの角度も自分で調整できるし、友達に迷惑をかけて散々飲んで介抱してもらうこともあるし、化粧で目尻のアイラインの角度や、髭剃りでどこを残すかまで、誰かの断りなしに決めることができるからだ。そのことを説明し始めると、話が長くなるし、障害者のことを宇宙人のような「自分とは違う世界の人」と思っている人には、宇宙語にしか聞こえない。そういったことも、なんとか理解を求めようと頑張り過ぎて、暖簾(のれん)に腕押し状態のまま、気力と体力を使ってきた。

本当は、一番大切で、難しいことは、とても理解のあるヘルパーと長いお付き合いをすることかもしれない。私は、いい出会いに恵まれて、おいしい料理を考えて作ったり、好きな人とデートをしたり、夜中に遊び歩くことだってできた。同じ感覚の人がヘルパーとして入ってくれることで、自分がしたい生活に近づけることができた。しかし、人はいつも同じ気持ちでいられないため、いつかお互いに合っていたところがずれてくる。究極なことを言うと、同じ人に恋してしまってライバルになってしまったら、そのヘルパーとは終わりだ。(究極なことだが、意外とこのパターンを経験する障害者は少なくない。)

人生の価値観、選ぶときの基準や考え方などで尊敬したり、共感したりすることはすばらしい。しかし、そこに頼った関わりだと、合わなくなってしまったときが辛すぎる。きっと、自分の生活や性格をさらけ出すこともセットでくっついていたからだろう。一人ヘルパーが辞めるたびに、自分の片腕が切り落とされるような感覚に襲われるのだ。

そのような夢も希望のないようなことを、私は心の奥にしまってきた。20代、30代のまだまだ青い私が、それらのことを消化することは難しかった。もっと代わりのおもしろい考えが思いついたら良かったのだけれど、これまで「障害者」というだけで、やらなくてはいけないことが多過ぎてそれどころではなかった。「障害者」は、生きるために、普通学校に行くことや就職することにハードルが設けられるだけでなく、そのハードルのことを考えたこともない人に説明しなければならなかったからだ。

先週末、私は心の奥にしまっていた閉塞感から一気に解放された。あるヘルパー事業所さんへの講演会で、私の生き様とともに、これからを考える話ができた。聞いてくださった皆様が、ヘルパーの仕事のことだけでなく、自身の人生のことまで考えてくださったことは、予想外だった。

そして、まったく別のルートで、私の考え方に似ているものを持っている障害当事者の方と出会った。そのかたは、「私の生活を見たことがない」のに、仕事により長く体調を壊してきたことや、「人として生きる」ことの感覚を共感してくださった。私も、共感した。ロールモデルのような似たような生き方をしている先輩と出会いたかったから、本当に嬉しかった。

そんなことを考えているうちに、ココアにのっていたホイップクリームが、ココアの色に溶け出していく。気がつくと、喫茶店のおじいちゃんは、もう一人のお客さんと話していた。そのお客さんは、喫茶店おじいちゃんと比べて、若いであろうが、そんなに離れていなさそうだった。ひたすらスーパー銭湯の話をしていた。どうやら、スーパー銭湯に行く人は、お年寄りだけでなく、サラリーマンなど若い人が、自宅でお風呂を沸かすのが手間で行っているらしい。喫茶店おじいちゃんは、老人ホームの大きな浴室を一般にも開放しているところがあるという情報を、お客さんに話していた。銭湯事情は奥が深そうだ。

阪急電車を少し読んでから、ふと時計に目を移すと、もう少しでヘルパーさんが自宅に来る時間だということに気がつく。ココアをストローで飲み干し、軽い足取りで帰った。

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