今悩んでいたり、苦しいな〜と思っていたりしても、なんとかなるだろうと思うことができたら、いいな〜。そんな未来のほんの少しの希望さえも、悩みのど真ん中にいる時には、まったく見えない。
昨年の3月、私は大きなうつ状態のど真ん中にいた。でも、いつもの日常は壊したくなかったため、10数人いるヘルパーさんには何も言わなかった。ただでさえ、数人のヘルパーさんが同じ時期にやめていったので、トイレさえもできない状況は作りたくなかったので、新しいヘルパーさんを入れることに気持ちを集中させていた。
私は、自分の人生や生命をすべて背負っていた。そう思ってしまうほど、苦しいものであった。体力と心が現状に追いつかない。一言では、今、どんなことが私の中で起こっているのか説明できない。ただ、今の生活状況は、自分で変えようと思って変えられることもあれば、変えられないこともある。それでも、自分はどういうことをこの先やっていきたいのか、そこに集中したいと思っていた。
そんな時、救ってくれるのは、やっぱり日常だった。昨年3月の日記にこんなことが書いてあった。「またAさんに髪を切ってもらい、心なしかスッキリする。最近は、雪で外出しにくかったり、コロナの影響で自粛モードに拍車がかかっていたりし、私の勢いはますます落ちている。いつもヘルパーさんのことで悩まされ、この前は、いつまでこんなことが続くのかと泣き続けた。ここ3週間くらいは泣き続けている。今のこの私は、私自身好きではない。でも、Oさんにお電話したら、ヘルパーさんのことで同じように悩んでいることがわかり、少し救われた。こう言った話ができる友人がいることに感謝しなきゃと思った。」
ヘルパーさんとの関わり方によって、日常生活をそのまま楽しめるか、日常とかけ離れた空間になってしまうかが違ってくると思う。
難しいのは、他人と関わる時点で「疲れる」ということである。その「疲れ」は、必要なこともあるし、楽しいこともある。誰とも関わらないより、誰かと関わった方が、「もっとおしゃれした方がいいかな」「こんなもの食べてみようかな」「新しいことしてみようかな」と思うなど、自分や生活に変化が出てくる。同居人がいると、その同居人と生活の空間を作っていく。同居人と笑い合うことばかりあればいいが、喧嘩や、別れだって起きてくる。そんなことを経て、「自分の性格」やいろいろなことが変化していくのだ。
私が目指したいのは、日常生活を一緒に送る同居人との人間付き合いに疲れること。ヘルパーさんに疲れるのはもうこりごり。どうしてか?それはヘルパーさんは複数人いるから、全員に合わせることは不可能に近いからだ。
ヘルパーさんがいることで、おいしい食事をし、温かいお茶を飲み、行きたい時にトイレに行き、寝たい時に寝ることができるのだ。それは、働いているヘルパーさんの理解と協力があって出来上がっていくものだし、その安心の土台があることで、生活しているヘルパー利用者も優しい気持ちになることができると思う。そして、新しいことにも挑戦する気持ちの余裕が出てくるのだ。
1年後の私は、兵庫県で、人生ではなく、ネギを背負って歩いていた。これが本当の日常である。札幌での生活を最後まで支えてくださったヘルパーさんに感謝できるのは、今の私だ。
