サムネイルイラスト:湯気がふんわり立っているみそ煮込みうどん
(メッセージつき:じぶんの舌がよろこべばなんでもいい)
たいへん、お待たせいたしました。と平謝りをして久しぶりに書きます。
友人が心配して「しんどいのか……?」とメールをくれたんですが、
はい、心も体も身動きが取れない状況でした。
心が折れそうになった時って、心の底から「まずいな……、そよ風が吹いても、ちょっとの刺激で、折れてしまって取り返しがつかなくなるな」ということを悟り、お地蔵さんのように、動かないでいるしかないんですよね。
それでも、ヘルパーさんは毎日来るので、口を開けてしゃべらないといけない。万が一、ヘルパーさんの精神状態が良くなくて、冴えない態度や空気を家に持ち込んできたり、私のことを心配して、どうにかしようとあれやこれやと言ってきたりしたら、私は何も反応しないで耐えるしかなくなってしまうくらい、「あと一歩で落ちてしまう」ところでした。
その時期は、ご飯を食べている時の「咀嚼(かんでのみこむ)」に、気持ちを集中させて、ただただ1日を過ごしていました。
さて、さて、どんな時でも私を救ってくれたのは、「食べもの」でした。
5年ほど前のコロナ禍で家にずっといた時も、人と会えなくても、「食べもの」はそばにいてくれて、こちらが切ったり、つぶしたり、ちぎったりしても、煮たり、焼いたり、蒸したりしても、何も文句の一つも言わず、私の舌を喜ばせて、胃に入っていき、私の血肉となってくれたのでした。
ヘルパーさんやそのご家族が畑をやられていた時に、いつもお裾分けをいただいていたのですが、それがどんなプレゼントよりも数百倍嬉しくて、土から栄養を吸収してきた野菜やお豆の本来の甘みを知ってから、手の込んだ料理なんてしなくていい、ただ蒸すだけでごちそうじゃん!と料理が楽になりました。
「ポテトサラダ、つくります」じゃなくて、
「じゃがいもを蒸してつぶして、マヨネーズで味をつけておこう」っていう感覚。
やることは同じに見えるかもしれませんが、何かをつくろうとするんじゃなくて、「じゃがいもをおいしい状態にする」だけっていう感じです。ポテトサラダをつくろうとすると、「きゅうりが必要で、玉ねぎが入っているのがポテトサラダよね」みたいに、一般的なものに近づけないといけないっていうプレッシャーになってしまうんですよね。
じゃなくて、私の舌の感覚から決めるっていうか、じゃがいものホクホク感を楽しみたくて、そこにシャキシャキきゅうり入れたらうまいかな、だから、きゅうり入れようっていう流れです。
昨日は、みそ煮込みうどんが食べたくて、お蕎麦屋さんのみそ煮込みうどんを想像しながら、ヘルパーさんに鍋に入れる食材を伝えました。
(肉汁がほしいから)「ツミレ入れます」
(キノコの出汁がうまいから)「しめじとまいたけ、ぶっ込んでください」
(みそとキャベツってよく合うのよね)「冷凍のキャベツを全部ドバッと入れて」
と心の声とともに決めていきます。
どんどんどんどん、合いそうなものを入れていくと楽しくなってきて、おそれが全然ない。結局、ニンニクチューブ、しょうがチューブ、しょうゆ・みりん・コチュジャンでつくっていたタレの残りなどを入れました。
この時、「みそ煮込みうどん」とは?なんて考えないし、調べもしない。調べてつくるものもあるんですが、そうやってつくったものはあまり覚えていない。私の舌や、鼻、目で美味しさを確認しながら、調整していくほうが次もすぐにつくれるんです。
そして、レシピを見てつくったわけじゃないから、おいしくできた時は、
「わたしって、みそ煮込みうどんの天才じゃん!」
と心から自分を褒めるんです。
料理をすると、私の体や心、感覚をさらに信じられるのが、サイコーです。
私の感覚を研ぎ澄ませてくれる「食べもの」に感謝しかありません。
ありがとう!
追記
今日は、ヘルパーさんに、朝ごはんでハムつきの目玉焼きを焼いてもらったら、ハムがカリカリおいしそうに焼けているのを見て、「このカリカリのハムをポテトサラダに入れたらおいしそう、あ!チーズも入れたら、ぜったいにおいしい」と思って、フライパンを洗う前に、ハムをもう3枚焼いておいてもらいました。
お昼につくったら、おいしすぎて、一気喰いして、のどが詰まってしまいました。
のどが詰まるほど、一気喰いしたくなる
「カリカリハムと濃厚チーズのポテサラ」の出来上がり。