「障がい」とはなにか 第4回

ちょうど思春期の頃、車いすで外を歩いていると、周りの視線が「かわいそう」という労わりの目で見ている様な気がして、誰も助けてくれない、誰もわかってくれないという孤独感で埋もれていた。
その10年後の大学生の頃、地下鉄や列車の駅で待っていると、知らないおばちゃんがトコトコ近寄ってきては、服のポケットからアメを2,3個取り出して「よく頑張っているね。」と私の掌に渡そうとしてきたことがあった。「おばあちゃん、ありがとうございます。私は手を裏返すことができないの。カバンに入れてもらえますか?」と伝えると、そうなのねとますます優しい声になり、再び「頑張るんだよ。」と励まされて行ってしまった。
その時の私は、アメをもらうことに抵抗がなかったと思う。ただ、「アメをもらえて当然」という意味ではない。きっと、私が「障がい者」であり、かわいそうに見えたからくれたのだろう。それをわざわざ断るということは、相手が良かれと思ってやっていることだから、傷つけてしまうに違いないと思っていた。そのため、抵抗することはしなかった。
20代後半、私の丸まった手には、それまで「かわいそう」だと言われる経験しかなかったが、違う見方もあると知った。ある日、男性の友人と食事をしていたら、「その手、チャームポイントだよ。もっと出したほうがいいよ」と言われた。別な男性には「足が小さくて可愛い」と言われたこともある。「可愛らしさ」で覗いてくる視線に、恥ずかしくてもじもじしてしまう。初めて湧いたこの気持ちを見透かされないかとドキドキした。
私は、背中が丸まったおばあちゃんを見ると、たくさん子どもを育ててきたんだなと尊敬するし、顔のシワを見ると、たくさんの表情をするほどの有意義な経験をしてきた方なんだなと思っている。テレビやその他のメディアを見ていると、キレイでいつづける努力をしないとならないと思わされている気がするし、歳をとることに不安を感じるような雰囲気が漂っている気がする。
社会全体には、目に見えない空気というものがある。呼吸のための空気の他に、思考さえも変えていく空気があるのかもしれない。吐いた言葉が空気となって、他の誰かに影響してしまうこともあるのだということも、忘れないようにしておこう。(つづく)
Hi Michiko, thanks for the entry. The first time I met you in Sapporo I remember some random woman saying that, it shocked me (that happens in the US but people tend not to be as obvious about it… usually…)
Fortunately the younger someone is, the better they are. Hope you are enjoying your travel!
Hi Paul, thank you for the message on the blog. I hope that many people can notice there is no “pity” in the world. Everyone can be doing well in their own life.